2006年7月8日 9:00 東京湾マリーナを世界一周航海に向け出港しました。 航海は10年間の予定で
2016年3月に戻
るそうです。最初の寄港地カナダ・バンクーバーのビクトリアを目指します。
(写真をクリックすると拡大します)![]() |
ヨット「ぽれーる」は52フィート・センターコックピットのカッターリグ艇(TAYANA52)です。通信設備はインマルサット(衛星電話、インターネット)、HF無線機その他6セット、航法機器はGPS
× 2、ロランC、気象FAX、レーダー、前方警戒ソーナー、その他発電機8kwの装備を搭載しています。
◎この航跡はここからご覧いただけます。
こんにちは、オケラネットの皆さん ぽれーる通信の関です。
長い間、音信不通にしておりまして申訳ありませんでした。
ぽれーるは1月12日からスリランカのゴール(Galle) ハーバー(北緯60度02分、東経80度13度分)に停泊しています。
バヌアツ以降、ニューカレドニアのヌーメア、オーストラリアのブリスベン、ウィットサンデー、ケアンズ、ダーウィン、クリスマス島、ココス・ケーリングを経由してスリランカへ参りました。
現在、ためてしまった航海記を思い出しながら書いております。 書上がった分から順次送信しますので、どうかご容赦下さい。
ぽれーる 関
1. バヌアツからニューカレドニアへ
バヌアツ・クルーズを終えたところで、ぽれーるはかなりのトラブルと整備を必要とする箇所が発生していました。ウィンドベーンのラダーシャフト・サポートシャフトの折損(ちょうど1年前にはシャフトが折損)、オートパイロット油圧タンクからの作動油漏れ、ステイスルステーワイヤーの素線多数切れ、セールの小さな破れ数カ所、ウィンドラスの作動不安定、航法系統GPSの作動不良等、小さなものを含めると約30カ所のトラブルがありました。
小さな不具合や整備箇所は時間をみて対応することはできますが、部品が必要なもの、修理施設や修理スキルの必要なものについては、それなりの対応ボートヤード等で修理する必要があります。また、9月上旬にはオーストラリア・グレート・バリアリーフ・クルーズを共にするヨット仲間が待っていました。ポートビラでの修理も検討しましたが部品を取り寄せるだけでも約1ヶ月必要なことから諦めました。
(写真をクリックすると拡大します) バヌアツ〜ニューカレドニア〜ブリスベン 航海
この海域でヨット等の本格的な修理が可能なのはニューカレドニアのヌーメアで、クルーズ計画でも予定していたところなので先ずはヌーメアに行くことにしました。ポートビラからヌーメアは約280マイル、南南西の方向にあります。途中、美しいロワイヨーテ諸島の直ぐ横を通過しましたが、ニューカレドニアのエントリーポート(出入国手続ができる港)はヌーメアのみです。これらの島に立寄って上陸することはできません。
また、ニューカレドニアを訪れる観光客の中で一番人数の多い日本人ビジターに対しても1ヶ月間のビザしか発行しません。(オーストラリア、ニュージランド、ヨーロッパ系等のビジターは3ヶ月ビザ)、そのビザの延長はかなり難しいと聞いていました。 ハバンナ・パスを通り、ポイント・コンセション湾で2日間休養を兼ねてアンカリングし、14日にヌーメアのオフェリナ湾でアンカリング、翌15日にモーゼル・マリーナで入国手続きを行いました。
バヌアツからニューカレドニアに来て一番違いを感じるのはあの蒸し暑かったポートビラと違って湿度が低く非常に過ごしやすいことと、視覚的にはニューカレドニア海岸にはバヌアツと比較すると椰子の木が少なく山肌が赤土で覆われているところが多いことでした。また、少し残念なことですが、モーゼル・マリーナを含む湾内はどぶ川のあのいやな臭いが漂っていました。
早速、ぽれーるの修理の調整とヌーメア市内の観光に出かけました。マリーナから約3km離れた湾を回ったところにボートヤードがあり、修理施設は整っていましたが、やはり、修理部品等のオーストラリア等からの取り寄せに約3週間かかり、修理アップまでは1ヶ月間をみる必要があることから結局ニューカレドニアでの修理も諦めました。
ヌーメア市内は日本人観光客が多いせいか、いたるところに日本語の看板や標示があり、市内を走るバスにも行き先が日本語で書かれているものを多く見かけました。街中で知り合った何人かの日本人観光客もマリーナのぽれーるに遊びに来てくれました。
ヌーメア市内を歩いているメラネシア系の現地人も白いソックスにスニーカー、服装もアイビー系のオシャレな若者を多く見かけ、バヌアツでのサンダル履きにTシャツ姿の若者とはかなり違っていました。ただ、バヌアツの人々は道端ですれ違う時もほとんどの人が挨拶をしてくれましたが、ヌーメアでは私から「ボンジュール」と話しかけてもほとんどの人は無言でむしろ変な顔をされました。
ニューカレドニアは、小説や映画の「天国に一番近い島」の舞台になったところで、ヌーメア市内は碁盤の目のように区画された道路にヨーロッパ調の美しい街並みとサン・ジョセフ大聖堂、ココティエ公園があり、周辺にもアメデ島、カナール島、イル・デ・パン島と美しい島々と観光地が多くあります。しかし、なぜかヌーメアの市内ではバヌアツのような目の輝きを持った人々に出会うことはできませんでした。
ぽれーるはマリーナのビジターズ・バースの奥に停泊していましたが、13日の午前、ほんの30分ほど近くのマーケットへ買い物に行っている間にぽれーるのデッキ上に置いていた愛用の自転車と買ったばかりのロープ100mが盗まれてしまいました。この時は、私だけではなく他のヨットからも自転車や無線機等、船の上に置いていたものが取られていたようです。マリーナにはセキュリティの担当者もおり、現地の人はなかなか入りにくい環境で、警察の担当者は多分フランス系の白人の窃盗団の仕業ではないかと言っていました。
マリーナではオーストラリアから来ていたカタマランのキャムとアーニー、パワーボートのモーリスとファエ夫妻にいろいろとお世話になり、彼等のリコメンドによりブリスベンの修理施設の整ったリバーゲート・マリーナへ行くことにしました。時間がなくてニューカレドニアの各地を回ることは出来ませんでしたが、ボートヤードのエンジンショップで出会った中国人のファンおばさんは私が捜している燃料フィルターを半日も自分の車に私を乗せて捜しまわってくれ昼食までご馳走してくれました。今度ニューカレドニアに来たときはゆっくりとニューカレドニアのいいところを案内してあげると言って別れ、ヌーメア市内でお土産屋さんを開いている森さんにもヌーメア市内が一望できるFOLの丘で偶然出会い、いろいろためになる情報を教えてもらいました。
また、私がニューカレドニアを出る前日に、日の丸を掲げたヨット「ジプシーローズ」がオーストラリア・ブリスベン近郊のニューポート・マリーナから着き、シングル・ハンドの清水さんにお会いすることが出来ました。清水さんは私と同じ神戸出身で元プロの船乗りだったそうです。ヨットはニューポート・マリーナで購入され日本国籍に変更してニューカレドニアに来られたそうです。
愛用の自転車等を盗られてしまったけれど、ニューカレドニアでのいい出会いの思い出をこころに留めて、オーストラリア・ブリスベンへ向います。
2. ブリスベンの思い出
9月3日午後、約束通りヌーメアから8日目にブリスベン沖に着き、モロトン湾を通り抜けてブリスベン川を約4マイルさか上り、目的地のリバーゲート・マリーナに到着しました。マリーナの桟橋には橋本さんが既に待ってくれていました。私がニュージランドから日本へ一時帰国した時に会ってから約9ヶ月ぶりの橋本さんとの再会でした。事前にメールで連絡していたとは言え、初めての寄港地に知っている人が待っていてくれることほど心強いものはありません。また、リバーゲート・マリーナは川の岸にあって桟橋付近もかなり水の流れがあり、ぽれーるを一人で狭い桟橋の間につける係留作業はたいへん苦労するところでしたが、橋本さんのサポートもあり何とか無事係留することができました。
橋本さんとの再会を祝したいところですが、先は、マリーナ・オフィスへの係留手続と入国手続を実施しなければりません。幸い、オーストラリアへの入国に際しては到着の96時間前までにカスタムへ申請しておかなければならず、既にメールでその作業は終わっていて、予定通りの到着であったため、カスタム、イミグレーション、クオランティの係官がほどなくぽれーるにやって来ました。オーストラリアへの入国はたいへん厳しいチェックを受けると聞いていましたが、実際には和やかな雰囲気の中でほとんどチェックも受けず手続は終わりました。
早速、マリーナ事務所とぽれーるの修理について調整し、ステイスル・ワイヤーの交換を依頼しました。リバーゲート・マリーナは最近つくられたマリーナらしく、修理施設は真新しくメガヨットも上架されていましたが、全ての施設や修理ショップはまだ整っていないようでした。
翌日、橋本さんとタクシーで近郊のスーパーマーケットへ出かけ新鮮な野菜やお酒、ワインを買込み、橋本さんのおいしい手料理をいただくことができました。また、その次の日にはブリスベン市内へ出かけ、久しぶりに大都会の雰囲気を味わうことが出来ました。リバーゲート・マリーナからブリスベン市内はタクシーで約40ドルもかかり高いため、次回の市内へ出かける時のために安価なバス路線や鉄道便を調査し苦労して乗継ぎ等のバス路線が分りましたが、結局、マリーナにいる間には2度目の市内へ出かけることはありませんでした。
マリーナを散策している時、フィジーのマロロ・ライライ島で出会ったヨット「YAWARRA(ヤワラ)」が係留されているのを見つけ、後刻、マリーナ内で「YAWARRA」のニコルとジェーンに再会することができました。彼等はこのリバーゲート・マリーナがホームポートとなっており、橋本さんがちょうどマリーナ内で知合ったジョンから焼肉パーティーに招待されて行ってみるとニコルとジェーンも来ており、クルージングの思い出やグレートバリアリーフのクルーズの楽しみ方、ヨットの修理に関する情報などの話が聞けました。
ジョンはぽれーるのオートパイロット油圧タンクからの作動油漏れ不具合の修理に彼の車を使って走り回り惜しみない援助をしてくれました。ジョン曰く「ヨットマンは困った時は互い様、助け合うのが当り前」初めて訪れた街で親切なヨットマンに出会えたことに心から感謝しました。
12日間リバーゲート・マリーナに停泊し、ステイスル・ワイヤーの交換とオートパイロットの油漏れ不具合修理等が終ったころで、ブリスベンを出港しウィットサンデーへ向うことにしました。
3. ブリスベンからケアンズへ
9月12日、ヨット仲間の橋本さんと共にブリスベンを出港し、オーストラリア大陸の東海岸に沿って上がり、谷村さん、山崎さんが待つウィットサンデーWhitsunday(南緯20度、東経149度)を目指し約600マイルのクルーズを開始しました。運悪く2〜3日前から北よりの向かい風が吹いており、浅瀬の多いモロトン湾内の細い水路を機走し、途中、鯨の潮吹きや海面に現れる黒い背を間近に見ながらやっと湾の出口に到着しました。
湾の出口から弱い北風の中、セーリングを開始したものの1〜2ktの北からの海流に阻まれぽれーるは北方向に上がれずほぼ東進状態でした。何回かのタックを行いましたが一向にウィットサンデーへの距離を縮めることができませんでした。仕方なく機走に切り替えた時には海流約5ktとなり、ぽれーるの前進スピードは機走しても1kt程度しか出せませんでした。
(写真をクリックすると拡大します) オーストラリア クルーズ アルバム
( Brisbane 〜 Whitsunday )
途中、オーストラリア・コースト・ガードの哨戒機による無線でのチェック受けたりしながら、ブリスベンから約160マイルのフレーザーFraser島北端のサンデーSandy岬(南緯24度42分、東経153度15分)をかわすのに約5日間もかかってしまいました。後で気が付いたことですが、北に向かう大型船もこの海流の影響を少なくするため、かなりフレーザー島の東岸近くを航行していました。
フレーザー島をかわしたところでやっと海流が1〜2ktに落ち、風も少しずつ東よりに変わり、何とかセーリングできるようになりました。ブリスベンから6日かかってやっと最初のアンカリング地であるレディーマスグレーブLady Musgrave島(南緯23度55分、東経152度23分)に着きました。 レディーマスグレーブ島は東西が2.5マイル、南北2マイルの卵形の環礁(アットール)で流れの速いパスを抜けると透明度の高い海水と珊瑚の海底が待っていました。早速、ひと泳ぎしたり、カヌーで静かな海面を散策し、たった一日の滞在でしたがクルーズの疲れを少し癒すことができました。
グレートバリアリーフ(GBR)はオーストラリア東岸沖の南緯22度付近からヨーク半島の先端をとおり、パプアニューギニアの近くまで約1000マイルに分布しています。また、今回ぽれーるがクルーズするGBRとオーストラリア東海岸に挟まれた内海は、南の入口辺りでは約60マイルあり、北に上がるほどその幅は狭くケアンズの北では水路のように細くなり、再びヨーク半島の先端では約60マイルになっています。南緯27度にあるブリスベン、25度のバンダバーグ、24度付近にあるレディーマスグレーブ島は正確にはまだGBRの内海に入っていません。
GBRの内海は水深がほとんど50〜60mで、海底は泥質で緑色の海は透明度(1m程度)がよくありませんでした。また、内海をクルーズしている時、海面を泳いでいるウミヘビをよく見かけました。鯨はオーストラリア東岸の湾内の比較的浅い海底が砂地のところにいるようですが、餌を求めてGBR内海を回遊しているようです。遠くでジャンプしているところとか潮吹きを時々見ることができましたが、今回はなかなか近くで見ることは出来ませんでした。しかし、海面には鯨の群れが移動したときに残る多量の黄色い排泄物が帯状となっていたるところに流れていました。
オーストラリアの東岸にある漁港やマリーナは、ほとんどが河口内や湾の奥にあり、港の出入り口を示す幅40mぐらいの航路帯標識が約3〜5マイル沖合に伸びています。その中を通って船が出入りするのですが水路内は意外と浅く流れがあるため、ドラフトが2mを越えるようなヨット等は干満と潮流に注意する必要があります。ぽれーるも何回かキールを海底に擦りながらこのような水路を通りました。レディーマスグレーブ島を出てぽれーるはGBR内海の航路帯に近づき、大型船を避けるためバリアリーフに近い内海の本土から少し離れた約40マイル沖合を航行しましたが、一度夜中に大きなコンテナ船が間近を通過していきました。
谷村さんとは当初、21日にウィットサンデーのハミルトンHamilton島(南緯20度21分、東経148度57分)で待ち合わせを計画していましたが、ぽれーるのウィットサンデー到着が3〜4日遅れそうなので、衛星メールで待ち合わせ先をアーリービーチAirlie Beach(南緯20度16分、東経148度43分)に変更しました。アーリービーチはハミルトンから北西に約20マイル離れた本土側にあり、ウィットサンデー観光のベースポートの一つとなっています。
日本からのオーストラリア旅行先としてウィットサンデーはあまり耳にしませんが、オーストラリアの地元では高級リゾート地、別荘地、クルーズのメッカとして有名で、高級リゾートホテルが点在しています。バックパッカー等の若者や一般旅行者は安価にウィットサンデー観光、クルーズツアー、ダイビングを楽しむためアーリービーチを起点にしている人が多いようです。
ぽれーるはブリスベンを出て12日目の24日にウィットサンデー諸島の北にあるハイマンHayman島(南緯20度02分、東経148度53分)を回ってやっとアーリービーチのあるパイオノアPioneer湾に到着することができました。この時点になってやっとアーリービーチで待つ谷村さんと日本の携帯電話が一方送信ですが繋がりました。市内の西にあるエーベル・ポイント・マリーナAbel Point MarinaにVHFで連絡し、バースへの係留を要求しましたが、マリーナの沖合で約2時間ほど待たされたあげく、ぽれーるにオーストラリアの国内ボート保険がかかっていないことからマリーナへの係留を断られました。
ブリスベンのリバーゲイト・マリーナではボート保険の要求はされませんでしたが、オーストラリアに限らず、それぞれのマリーナのポリシーでその国に有効なボート保険を要求されることがあります。ニュージランドでも同じようなことがあり、ぽれーるもニュージランドに滞在している時、ニュージランドのボート保険をかけました。自船の船体保証をかけない対物と第三者補償のボート保険であれば保険額もそれほど高くないので、3ヶ月以上滞在してマリーナに停泊する場合は入国と同時にその国のボート保険に入っておくのもいいかもしれません。
ぽれーるは、マリーナのバースへの係留を諦め、マリーナ内の給油バースに横付けして谷村さんをピックアップし、燃料補給を行ってマリーナから約0.5マイル離れたアーリービーチの東側にあるウィットサンデー・セイリング・クラブの沖合のブイに係留しました。2日間アーリービーチに停泊し、食糧の調達と谷村さんとの再会を祝して街中のレストランで再会歓迎会を行いました。
ウィットサンデー・セイリング・クラブは海外からのヨット歓迎といったクラブでブイ係留はノーチャージでした。クラブの沖合では毎日のように子供達が小さなディンギーヨットでセーリングの指導を受けており、また、クラブハウスのレストランではクラブ員らしい人達が海を眺めながら食事やビール等を飲んでいました。ぽれーるの我々もクラブの洗濯機で汚れ物の洗濯し、久しぶりに温かいシャワーを浴び、クラブハウスでビール等を飲みました。ウィットサンデー・セイリング・クラブの旗とぽれーるの持っていた東京クルージング・ヨット・クラブ旗も儀式はありませんでしが受付の女性との間で交換を行いました。
話は少し変わりますが、ドコモの携帯電話は日本国内では主流で、海外でそのまま使える国際ローミングとして約200カ国で通話可能とされています。もちろん、ドコモの携帯電話はオーストラリアでも可能となっていますが、実際には携帯電話の型式をよく確認しておかないとブリスベンでは使えてもウィットサンデー、ケアンズでは使えないということがあります。電話を受けることができても発信ができないということもあります。
皆さんも海外旅行に出かけて自分の持っている日本の携帯電話を使う場合は事前に携帯電話の会社によく確認をしておいて下さい。また、日本の携帯電話を海外で使う国際ローミングは非常に通話料等が高いことも認識しておいて下さい。私の持っている日本の携帯電話はボーダーフォン系統でオーストラリアでは全ての区域で通話が可能でした。しかし、私は非常の場合以外は日本の通話料の高い携帯電話を使わないことにしています。
一度、カナダのビクトリアで日本にいるときと同じ感覚で使った時、その月の通話料は約40万円でした。今はフィジーにいる時にイタリアのヨット仲間からタダでもらったNOKIAの携帯電話にそれぞれの国のシムカード(US10ドル程度)を買ってプリぺード方式で使っています。日本の携帯電話よりは非常に安価な料金で通話ができます。
また、それぞれの国でその国の電話を持つということは、そこで知り合った人やカスタムス、イミグレーション等の公共機関への連絡や電話を受けることが出来ます。もちろん、日本への国際電話も日本の携帯電話よりも安くかけることが出来ます。国際電話はインタネット電話「SKYPE」が断然安いですが、「SKYPE」にはパソコンとインターネット環境が必要です。小さくて持ち運びが便利で電波の届く範囲であればいつでも連絡できるといった面ではやはり携帯電話が一番です。
ぽれーるは橋本さん、谷村さんを乗せ9月26日午前にアーリービーチを出港しウィットサンデー・クルージングを開始しました。当日は南の風が強くパイオニア湾を出たところで風速が一時40ktに上がったため、少し戻ってファンネルFunnel湾(南緯20度15分、東経148度45分)で一泊し、風のおさまった翌日27日、フックHook島のナラ・インレットNara Inlet(南緯20度08分、東経148度55分)へ約15マイルのクルーズを行いました。 ナラ・インレットはクルージングのメッカらしく既に約10隻のヨットやパワーボートがアンカリングしており、日の丸を掲げたぽれーるがそのヨット等の近くを通り過ぎる時、その船のクリューから「コンニチワ!」とよく日本語で挨拶されました。インレットの奥側でアンカリングを行い、早速、ディンギーで上陸して山の中腹の洞窟にあるオーストラリア先住民アボリジニが描いた壁画を見たり、見晴らしのいい場所まで上り、インレットに停泊中のヨット等を眺めました。
もう一人のぽれーるへの乗組み予定の山崎さんが9月29日、ケアンズからハミルトン空港に着きハミルトン島のマリーナでピックアップする予定だったため、28日はナラ・インレットを出てシドCid島に移動し、シド島の西海岸沖(南緯20度16分、東経148度55分)でアンカリングしました。翌29日は早朝にシド島を出発しハミルトン島の1マイルほど手前にあるデントDent島北(南緯20度20分、東経148度56分)で山崎さんの搭乗した飛行機が着陸のため上空を通過するのを待ちました。
その飛行機を確認の後、ハミルトンのマリーナ内にぽれーるを入れ、桟橋に着けられないため、谷村さんがディンギーで山崎さんを迎えに行くことになりました。マリーナ内の入口近くの海面で止まっていたぽれーるへマリーナ関係者がパワーボートで来て、停泊しない船のマリーナ内への乗り入れは他の船のマリーナへの出入りの障害になるのでマリーナから直ぐに出るようにと勧告を受けてしまいました。ちょうど桟橋からフェリーが出港し、ぽれーるに迫る直前でしたが何とか山崎さんをピックアップし、大急ぎでマリーナから出ました。
(写真をクリックすると拡大します) ウィットサンデー・クルーズ
予定していた4人が揃ったところで、あらためてウィットサンデー・クルーズを開始し、先ずはハミルトン島の北側を回りソルウェー・パスSolway Passを抜けて白い砂浜で有名なウィットサンデー島にあるホワイトヘブン・ビーチWhitehaven Beachを目指しました。ホワイト・ヘブン・ビーチは約5kmほどの白い砂浜が続き景観の美しいところとしてウィットサンデーを代表する名所の一つです。
沖合のアンカリング地(南緯20度17分、東経149度03分)には既に大きなクルーズツアー帆船やスクーナー等を含めた多数のヨットが停泊していました。シーカヤックで訪れた若い人達やツアーの人達が砂浜を散策したり水辺で遊んでいました。ぽれーるもアンカリングを終えたところで、早速、ディンギーで上陸し、日本を代表するおじさん4人は若い女性のビキニ姿に少し気を取られながらも記念写真を撮ったり白い砂の浜辺の散歩を楽しみました。
翌30日にはアンカリング場所を3マイルほど北の同じウィットサンデー島にあるトング・ポイントTongue Pint(南緯20度14分、東経149度02分)へ移し、ホワイトヘブン・ビーチの北の端にあたるところから始まるヒル・インレットHill Inletを訪れました。ヒル・インレットは奥行が約3マイルの入り江で両サイドを山の稜線で挟まれ、入り江の入口は0.5マイル程の幅があり、奥に行くほど両サイドの山が迫って狭くなっています。
このインレットは潮の引き具合でブルーの海がライトブルーに変わり、更に白に近い淡いブルーを呈し、最後に目映いばかりの真っ白な砂地が現れます。また、所々に取り残された海水のブルー、潮が引くときに出来た蛇行したブルーラインと白い砂、それらを挟む山の緑の織りなす景観はとても口では言い表すことの出来ない美しさです。
残念ながらぽれーるのようなキールヨットはこのインレットに入り込むことは困難ですが、我々がこのインレットを訪れた時は3隻のカタマランヨットがほとんど砂の上に鎮座し、次の満潮までの美しい景観の変化とゆっくりとした時の流れを楽しんでいる様子でした。
ウィットサンデーを訪れるのが2回目の山崎さんが案内役をかってくれ、ヒル・インレットを見渡せる展望台や海水が引いた砂地を歩くことが出来ました。その日は近くのアポストルApostle湾(南緯20度14分、東経149度00分)でアンカリングし深い山間の静かな湾でぐっすり休むことが出来ました。
10月1日は南東の風に乗ってぽれーるは北上し、フック島を左手に見ながら北の端を東から回り込みハイマン島の北端(南緯20度22分、東経148度53分)をかわしてハイマン島の西のブルーパール湾(南緯20度03分、東経148度53分)で停泊しました。このブルーパール湾の岸近くはダイビング・ポイントとなっているらしく、その日の夕方までに5隻のツアー・ヨットが停泊し、多くの人がダイビングやスノーケリングを楽しんでいました。このツアーに使われているヨットは70ftクラスの現役を引退したようなレーシングヨットで1隻当り30人近いツアー客を乗せていました。ぽれーるからも山崎さんと谷村さんが対岸に行ってスノーケリングを楽しみ珊瑚や魚の水中写真を撮って帰って来ました。
10月3日の朝に谷村さんがアーリービーチからケアンズへ長距離バスで行き、ケアンズから飛行機で日本へ帰ることになっていましたので、ぽれーるは2日に再びアーリービーチに戻ってウィットサンデー・セーリング・クラブの沖合でブイ係留しました。そして、その日の夕方、市内のレストランで谷村さんの送別会とウィットサンデー・クルーズの打上げを行い大いに盛上がりました。しかし、その夜のウィットサンデー・セーリング・クラブの桟橋からディンギーでぽれーるに戻る時にちょっとしたハプニングが起ってしまいました。
曇り空の海上は真っ暗で小雨がぱらつき12〜13ktぐらいの風が陸から沖合に向って吹いて海面は少し波が立っていました。桟橋からぽれーるまでの距離は約400mぐらいですが、その日に限ってディンギーでいくら走り回ってもブイ係留しているはずのぽれーるを見つけることが出来なかったのです。沖合には約30隻のヨットがブイ係留やアンカリングをしおり、それぞれアンカリング・ライトや灯火を点けていました。もちろん、ぽれーるもソーラー・ライトが点いていましたが、暗い海上ではかなり近づかないと船影の確認が出来ませんでした。
また、ディンギーの船外機は一週間ぐらい前からエンジン回転を上げるとプロペラは滑ってしまって推力が失われるという不具合が発生していましたし、20分ほど探し回って船外機の燃料残量も少なくなっていました。その時の私の頭にはアーリービーチの翌日の朝刊に「日本人ヨットマン4人が夜中のアーリービーチ沖で遭難し、対岸にディンギーで流れ着いたところをコーストガードに救助される!!」何故か日本語の活字が浮んでいました。
燃料のある内に陸側の明りで確認できるクラブの桟橋に戻ることを決意し、200mぐらい桟橋に向け走った時、同乗していた橋本さんがぽれーるの近くにブイ係留していた特徴のあるヨットを見付け、それを頼りにやっとぽれーるに帰り着くことができました。本当に同乗の皆さんにご迷惑をかけました。実は、このような経験は外洋クルーズに出て今回で2度目のことで、1回目のフィジー・サンドウィッチ湾での苦い経験はほとんど生かされなかったことに深く反省させられました。
初めて訪れるアンカリング地では暗くなる前に船に帰ること、天候が悪くなると予想される時は上陸しない、暗くなっても船位をしっかりと把握できる目標を確認しておく、飲酒はほどほどにしておく、船外機の燃料は出来るだけ満タンにし、気に掛る不具合は早めに対処しておくこと・・・。
3日の朝、8日間ウィットサンデー・クルーズを共にした谷村さんが下船して日本へ帰って行き、橋本さん、山崎さんと私の3人となり、取りあえずケアンズに向けクルーズを続けることにしました。
10月4日の朝にアーリービーチを出港、南東の10kt前後の追風の中を平均4ktで夜通し帆走し、5日の午後にアーリービーチから約100マイル西北西にあるケープボーリング・グリーン(南緯19度19分、東経147度23分)でアンカリング、6日には、更に34マイル西北西のマグネチックMagunetic島のホースシューHorseshoe湾(南緯19度07分、東経146度51分)でアンカリングしました。
オーストラリアの今回クルーズした中では大きな町の観光地を除くとほとんどの地方の観光地は人通りも少なく静かな雰囲気のところが多いようです。日本人的な観光地の評価からすれば人通りが少ないため萎びれた活気のない観光地と位置づけられてしまいそうですが、その分ゆったりとした時間が過せそうなところがほとんどでした。マグネチック島もそういう観光地でした。
(写真をクリックすると拡大します) オーストラリア クルーズ アルバム
( Whitsunday 〜 Cairns )
7日は、またマグネチック島から北北東に約38マイルのオルフェスOrpheus島のリトル・パイオニアLittle Pioneer湾(南緯18度39分、東経146度29分)でアンカリングと小刻みにクルーズし、8日にこのクルーズの一つの目的地としていたヒンチンブロックHinchinbrook島の南側の海峡入口(南緯18度30分、東経146度23分)に着きました。ヒンチンブロック島は淡路島を二回りぐらい小さくした面積の島で山裾には熱帯雨林が茂り、島の中央の背にはクィーンズランド州最高峰のマウントボーエン(1121m)をはじめ高い山がそびえています。
比較的平らなオーストラリア東海岸の大陸を眺めてクルーズしてきた者にとっては初めて高い山に出会った感がありました。島全体は国立公園となっており、ブッシュウォークのためのトレイルとキャンプ場はありますが、北端の一軒のホテルを除くとほぼ無人島です。また、オーストラリア大陸とヒンチンブロック島の間には川のようなチャンネルが続いており、チャンネルの中央部にはマングローブ林と迷路のような水路が縦横に走っています。
オーストラリアの海岸にはこのヒンチンブロックのようなチャンネルやインレットが沢山あり、ヨットやボートは海原とは違った林や山間のチャンネル・クルーズを楽しんでいる人も多くようです。ぽれーるは全長約28マイルのヒンチンブロック・チャンネルの南口にあたるルシンダLucindaからチャンネル・クルーズを開始し、約10マイル入ったチャンネルの中程にある小さなハイコックHaycock島(南緯度分、東経度分)の北側で1日目はアンカリングを行いました。しかし、このマングローブの林はアブの住みかになっているらしく、停泊時もクルーズしていてもよく足や腕に「チック!」と痛みを感じたらアブに噛まれていました。橋本さん、山崎さんと私の3人の内、一番アブに攻撃されていたのは午(馬)年生れの橋本さんでした。ちなみにアブは英語でホースフライHorseflyといいます。
翌9日、ヒンチンブロックの高い峰の頂から雲が滝の水のように降下しているのを見ながら、さざ波も立たない鏡のようなヒンチンブロック・チャンネルをクルーズし、その日の午後にはケープ・リチャードCape Richardsのリゾートホテルの前のミッショナリMissionary湾(南緯18度12分、東経146度13分)でアンカリングしました。この湾の奥にはマングローブの林があり、その林の中にはクリーク(小さな入江)が多数水路のよう伸びています。吃水の浅い船であればこのクリークをさか上り、マングローブ林の奥に入り込むことができます。ぽれーるのようなキールボートは残念ながらこの水深1m前後のクリークに入ることは出来ません。
早速、上陸してリゾートホテルで翌日のクリーク・クルーズ船の乗船予約を入れ、ホテルのラウンジでビールを飲みシャワーを浴びて、ホテルの裏手にある美しい海岸を散策しました。翌日、ホテルの前の桟橋からクルーズ船に乗り、かなりのスピードで湾を横切って、狭いクリークの奥へに入いりました。途中クリークの中程で魚釣をしている小さなボートやアンカリング中のカタマラン・ヨットを見ながらクリーク・クルーズを楽しみ、クリークの奥地で上陸してマングローブ林の中をブッシュ・ウォークし、ラムゼイRamsay湾の美しい海岸を散策しました。クルーズ船は帰えりの途中の海岸で我々を下ろし、そこからリゾートホテルまでの約6kmのジャングル、海岸、山越えのトレイルを楽しみました。
10月11日朝、再びぽれーるはケアンズに向けクルーズを開始し、ダンクDunk島、ハイHigh島、フィツロイFitroy島でアンカリングを行いました。ハイ島は無人島ですが、ダンク島とフィツロイ島はそれぞれリゾートホテルがあり、地方の静かな雰囲気の観光地でした。
ブリスベンを出港してから約1ヶ月の10月15日に、今回のヨット仲間と共にするクルーズの最終目的地ケアンズに到着しました。ケアンズの港もやはりトリニティ湾から続くトリニティ・インレットの入口付近ににあり、沖合に伸びる狭い水路標識の間を航行してマリーナに着くことができました。当初、ケアンズでのマリーナ停泊はアーリービーチのマリーナで要求されたオーストラリア国内ボート保険が要求されるのかと思いましたが、我々が停泊したマーリン・マリーナは市営マリーナでしたが、特にそういった要求はありませんでした。
ケアンズでは4日間停泊しましたが、街中を歩いていると本当に多くの日本人観光客とすれ違いました。また、ケアンズ在住の楢崎さんご夫婦がマリーナのぽれーるの日の丸を見てわざわざ訪ねてくださり、ケアンズ停泊中に日本料理店への招待や食糧品の調達等でたいへんお世話になりました。楢崎さんご夫婦は既にオーストラリアの定住ビザをお持ちで、ケアンズを中心にヨットによるクルージングを楽しんでおられるとお聞きしました。また、楢崎さんは地元のコーストガード・ボランティアのメンバーで、今はカタマランから乗換え購入された新艇のヨットのシドニーからの回航されてくるのを待っておられました。
9月3日のブリスベンでの出会いから46日間共に過した橋本さん、途中、ウィットサンデーからケアンズまでの20日間のクルーズを共にした山崎さんとは19日にケアンズでお別れすることになりました。当初、ぽれーるのクルーズ計画では、ケアンズからブリスベン方向に約700マイル戻ったところのバンダバーグでサイクロン時期の約5ヶ月間を過す予定でしたが、既にケアンズに到着する前からこのまま北上しヨーク半島先端の木曜島を回り、ダーウィンへ向うことを決めていました。
4. ケアンズからダーウィンへ
10月19日、再びシングルハンドとなってダーウィンへ向うことになりました。ケアンズから北のグレートバリアリーフ(GBR)の内海はますます狭くなり、曲りくねった水路は2〜5マイルほどの幅しかなく、また、多くの暗礁が航路帯近くにあり、大型船も航行しています。こういった狭い危険な水路では、ヨットは明るい日中しか安心して航行することしか出来ず、日々の航程は40〜50マイルが限度です。ぽれーるはGBRの内海をクルーズするのを諦め、ケアンズの北東約38マイルにあるトリニティ・パスTrinity Pass(南緯16度21分、東経146度02分)から外海に出て再びヨーク岬の先端から南東に約100マイルの距離にあるレイン・アイランド・エントランスRain Island Entrance(南緯11度39分、東経144度04分)からGBR内へ入り木曜島へ行くことにしました。 ケアンズ出港の4〜5日前から25〜30ktの南東の風が吹いており、トリニティ・パスを出た外海では4〜5mの波がたっていました。ぽれーるはほぼ真後ろから風と波を受ける不安定なランニング状態でキャビン内にいた時、急激なローリングで壁に身体を二度ほど叩きつけられました。何とか軽い打身程度で済みましたがGBRの穏やかな海と外海の違いを思い知らされました。
(写真をクリックすると拡大します) ケアンズ 〜 ダーウィン 〜 ココス島 クルーズ
GBRに沿って約20マイル沖を北上し、ケアンズからレイン・アイランド・エントランスの約400マイルを2日間で走り、再びGBRに入ったのは21日の午前でした。航海図ではエントランスを左に回りきったところの珊瑚礁の内側にアンカリングのマークがありましたが、30kt近い南東の風が吹抜け、うねりはないものの15mほどの海底は珊瑚がびっしりと生育していました。強風下の海面でアンカーが珊瑚や岩に絡まる可能性が高いところではとてもアンカリングする気になりませんでした。
結局、既に珊瑚礁の内海に5マイル入っていて、これから向い風と波の中を外海へ戻るのもたいへんなことから、このまま珊瑚礁の暗礁地帯を夜通し走り約80マイル先の内海の航路帯を目指すことにしました。明るい内は暗礁が目で確認できていましたが、曇り空の月も星も見えない海面は夜になるに従い暗闇の世界へ変り、頼りにするのはGPSマップと暗礁で砕ける波の音だけでした。クルーズ速度を4kt以下に落し、変針を繰返しながら200〜100mの狭い水路をいくつも通り、GPSマップが正確なことを祈るばかりの暗闇の時間が約10時間続きました。
GPSは衛星をとらえる数が減ると距離誤差が大きくなります。また、航海中、GPSは時々ロストポジションすることもあり、常に正確な位置を示しているとは限りません。GPSに内蔵されている地図データも大型船が航行するような航路帯を除けばどこまで正確かどうかは分りません。今回もこの暗礁地帯の航行中に2回GPSがロストポジションし、位置誤差が200mを越えたことが3度ありました。
ぽれーるにはハンディータイプも含めると6台のGPSを搭載しています。航法系統のGPSは現在故障中ですが、5台のGPSの位置を同時に確認することが出来ます。しかし、実際にGPSを比較すると分りますがそれぞれの位置情報は少しづつ違っています。こういった狭い水路を航行するときは普段から一番信頼性の高いと思われるGPSを見極めておくことが重要で、複数のGPSを見て混乱するよりは、その信頼性が高いと思われるGPSを頼りに航行する方がいいように思います。22日の5時前になってやっと辺りが明らみ、何とか海面を目で確認しながら進むことが出来るようになりました。この時ばかりは心から神様に感謝し、また、二度とこのような危ない航行はしないと心に誓いました。
23日の13時に木曜島沖に着きましたが、島の間を抜けてくる風をまともに受け、潮流の速い木曜島のアンカリング地は諦め、対岸のホーン島沖にアンカーを下ろしました。結局、風がおさまらなかったため木曜島への上陸を諦め、翌日24日にはダーウィンへ向け出港しました。
アラフラ海に入ると海は急に穏やかなり、8〜10ktの東風を受けてぽれーるはコンスタントな4ktでランニング・クルーズを続けました。アラフラ海は海図を見ても分るように水深がどこまで行ってもほぼ一定の50m前後でグレイトバリアリーフの内海と同じように緑色がかった海が広がっています。もし、アラフラ海の海水が無くなったらきっとオーストラリアの中央地帯のような大平原が姿を現すことでしょう。
また、ウミヘビや海面に漂う鯨の排泄物の黄色い帯もグレートバリアリーフの内海と同じでした。ただし、昼間鯨の姿を見ることは一度もありませんでしたが、夜中、ぽれーると併走して泳ぐ鯨の潮吹き音が間近で何度も聞かれました。また、南緯10度付近を真西に向って進むぽれーる右舷の北の空には懐かしいカシオペアが夕方から、夜半過ぎには北斗七星が見えていました。
トンガでトローリングのために買ったピンク色のイカのルアーには南太平洋をはじめグレートバリアリーフでも一度も魚の引きがきたことがありませんでしたが、アラフラ海に入ると70cm前後のツナが入れ食い状態になり、毎日、刺身とツナのステーキ、残った身は干物にしてはビールのつまみとなりました。不思議なことに他の海域で魚がかかっていた小魚の形のルアーとか青色や緑色のイカのルアーにはほとんど引きがありませんでした。
クローカーCroker島(南緯11度、東経132度30分)の沖合でケアンズを出て初めて陸岸に沿って同方向に航行するヨット(距離3マイル程)と出会い私から無線で呼びかけ話することができました。彼の名前はダン、シドニーがホームポートでオーストラリア一周中で私と同じようにシングルハンドでケアンズからダーウィン目指しているとのことでした。ダーウィンのハーバー事情をいろいろと教えてもらいダーウィンで会おうと言って交信を終りました。この時は夕方で直ぐに船影が見えなくなり、結局、ダーウィンでも会う機会はありませんでした。
しかし、この後、ぽれーるがダーウィンからクリスマス島に向う途中、ダーウィンを出て2日目の洋上で偶然にもそのダンから無線で呼びかけられました。お互いやはり3マイル以上離れていましたが、彼はぽれーるの大きな日の丸と黒い船体でぽれーると分ったようです。お互いの安全な航海といつか何処かで会おうと言って彼は更に南のパースを目指し南西に針路を取り、ぽれーるはクリスマス島へ真西に向いだんだんと船影が小さくなって行きました。
アラフラ海を抜けてダーウィンを目指す場合、メルビル島とオーストラリア北部のアーネムランドの先端に伸びるベーション岬の間のダンダスDundas海峡(南緯11度16分、東経131度40分)を通りバンディーメン湾に入って再び西のインド洋ティモール海への出口のクラレンス海峡(南緯12度05分、東経131度03分)を通過してダーウィンへ行くのが近道です。ただし、これはダーウィンに着いてから分ったことですが、これらの海峡は干満差による潮の流れが最大6kt程度あり、これに逆行して進んだぽれーるはこの2つの海峡を通過するのにかなり時間がかかりました。 木曜島から約780マイルのダーウィンには10月30日の正午に到着しました。 5 ダーウィンの思い出 夏のダーウィンは本当に暑いところです。日中の日差しが強く夜になっても湿度が高く気温は30℃を下回ることがありません。日中の街を歩く時はひさしのある帽子とペットボトルの水は必需品です。
ぽれーるは10月30日の正午にダーウィン港の沖合のフランシス湾にアンカーを下ろしました。今年の7月には日本のヨットのリバティーがダーウィンの街の西にある綺麗なファニー湾に停泊し、かなり沖合のアンカリング地のためディンギーでの上陸に時間を要したことがホームページに書かれていました。ぽれーるはダーウィンの奥にある海はあまり綺麗ではありませんが上陸が容易で船の修理とダウンタウンに近く買物に便利な東側のフランシス湾を選びました。
ダーウィンの海は干満差が7mを越えており、ぽれーるがダーウィンに到着した時が最干潮で干上がった泥の上にモノハル・ヨットが横たわり、何隻ものカタマラン・ヨットが泥の上に鎮座していました。また、500トンクラスの貨物船も完全に泥の上でした。マリーナはヨットのマスト・トップが土手の向う側に見えるのみで、マリーナの水門はしっかり閉じられており、マリーナ内の海水が流れ出てしまわないようになっていました。また、近くの漁港もマリーナと同じように水門が閉じられており、ダーウィンではヨットや漁船の港への出入りには潮の干満に伴う時間制限があるようです。
潮の干満に関係なく常時使えるダーウィン港の桟橋と港内にはかなり大きな船とコーストガード、タグボート、観光船、観光ヨットのみが係留されていました。ぽれーるがフランシス湾に着いた時、ダーウィン港には高さ150mを越える塔がそびえる海上オイルタワーが修理のため桟橋に係留されていました。
早速、ディンギーでダーウィン港内の浮桟橋に上陸し、ケアンズからの航海中に壊れたブームバング・ピストンからの油漏れ修理のためハイドロリック・ショップを捜しに行きました。途中、港内で電気関係の修理をしていた人にハイドロリック・ショップの場所を尋ねたところ、親切にも彼の知っている郊外のショップまで車で乗せていってくれました。郊外のハイドロリック・ショップでピストンの修理を依頼し帰りは高速道路の脇を5kmほど歩いて港に戻りましたが、日差しが強く、暑さのため頭がクラクラし倒れそうになりました。
ダーウィン港は第二次世界大戦の時、日本の艦載機による空襲を何度か受けており、約300人近い人が空襲の犠牲になったそうです。港の中にもその追悼記念碑があり、破壊された桟橋や建物の写真が飾ってありました。また、港から少し歩いたところの丘の麓には日本軍からの空襲を避けるための防空壕がいくつか残っており、中の一つは戦争記念館となっていました。
2日目もやはり壊れたままになっているウィンドベーンを改修(ダラー方式からステアリング駆動方式へ)して何とかオートパイロットとして使えるようにするため近くのマリーナへ部品入手等の情報収集に出かけました。たまたま、ダナビーチマリーナの掲示板の前にいた人にマリン部品や燃料補給等について尋ねているうちに彼が私を自分の車で連れて行ってくれることになりました。彼の名前はジュリアス、高校の数学の先生で家族はケアンズの南約100マイルにあるタウンビルにいるそうです。今はダーウィンに単身赴任し市内の自宅とセカンドハウスにしているマリーナに係留中のモータークルーザで暮しているそうです。
結局、ジュリアスは私がダーウィンに滞在している間、修理ショップ、マリン部品ショップ、食糧品等の買出しに彼の車を使って支援してくれました。また、彼はダーウィンを中心にインドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシアに自分のモータークルーザで航海しており、いろいろ近辺のクルーズ情報を教えてくれました。私がダーウィンの後、インドネシアのジャワかジャカルタにクルーズするつもりでいることを話すとインドネシアはやめた方がいいと言われました。
それは、2007年からインドネシアのレギュレーションが変ってインドネシアを訪れるヨット等はボンドBond(入国時に保証金として預け出国時に返却)としてそのヨット等の評価額の20−50%の金額を入国時に支払わなければならないということでした。また、出国時のボンドの返却については明確になっておらず、返却されたお金がインドネシアのルピアではマネーチェンジで大きな損失が生じるおそれがあります。
このボンドを免除してもらうにはやはりかなりの賄賂をインドネシアの役人へ渡す必要があるそうです。なお、ヨットレースやオーシャンラリー参加艇についてはこのボンドは免除されるとのことでした。また、インドネシアやフィリピン海域にはパイレーツの問題もあり、シングルハンドによるクルーズは勧められないということでした。
フランシス湾には地元のヨット等以外には、ブリスベンから来たビル、サリー夫妻にその息子のジャックを乗せたオーストラリアのヨットが1隻、ぽれーるの2日後に到着したサンデイゴがホームポートのジェフのヨットの3隻のみでした。この時期、ダーウィンの上空は毎晩のようにサンダーストームが通り過ぎていきます。
11月4日の夜も夜半過ぎかなり風速が上がり、突然、ジェフからヨットに繋いでいたロープが切れてFRP製のディンギーが流されてしまったので捜すのを手伝って欲しいとの無線連絡が入りました。約20ktの風が吹き激しい雨と波立つ湾内をぽれーるのディンギーでジェフのヨットに行き彼を乗せて流されてしまったディンギーを捜し真っ暗な海上を走り回りました。
約30分後に彼のディンギーが風下の岩場に漂着しているのを発見し、ディンギーを桟橋に着け陸側から二人でロープを使って岸に引上げました。その時にはディンギーに付けていた船外機は外れて無くなっていました。彼のディンギーは所々FRPが壊れて孔が開いていましたが、翌日には自分で修理し、船外機も付近の海底から引上げ整備して使えるようになっていました。11月8日にはぽれーるを除く2隻のヨットはシンガポールに向け出港して行きました。
ジュリアスは仕事の合間に私を近隣の自然公園やワニ園へ連れて行ってくれ、滝壺で泳いだり餌に釣られてジャンプするワニを見せてくれました。夜には日本でいう居酒屋(オーストラリアでは「クラブ」と言います。)へも一緒に行きました。
ダーウィン地区は既にサイクロンの危険期間に入っていて、フランシス湾でのアンカリングは危険なため、ジュリアスは万一のためマリーナ係留(50ftクラスのヨットで月額約5万円)やマングローブの退避場所を紹介してくれました。また、彼のマリーナのヨットクラブのパティーや食事に招待してくれ、多くの彼の仲間を紹介してくれました。
私は9月3日にオーストラリアへ入国し、3ヶ月間の滞在ビザは12月2日で切れるため、そのビザの延長について市内のイミグレーションオフィスへ何回か足を運びました。ただ、行く度にイミグレーション担当官が変り、それぞれの言うことが違っていました。結局、日本人のオーストラリアのビザ延長は240ドル払い、ある程度の所持金の証明(インターネットで入手した日本の銀行の日本語の残額証明でも可能でした。)があれば5分もかからずに簡単にできることがダーウィン出港の直前に分りました。しかし、その時には既にカスタムへクリスマス島への出港手続を終え、また、出港を前提とした無税燃料の給油も終っていました。
11月12日、約2週間滞在したダーウィンを出て、先はクリスマス島へ向うことにしました。ジュリアスをはじめ地元のヨッティーからはこの時期の南インド洋へのクルーズは50%の確率でサイクロン等に遭遇する可能性があり幾度も私を引留めようとしました。私の出港への決意が変らないと分って、ジュリアスは最後にダーウィン空港気象センターへ連れて行きサイクロン担当官の話を聞かせてくれました。最近のサイクロンの発生区域、発生後の針路、発生直前の兆候等、また、ぽれーるのコース上にサイクロンの発生のおそれがある時は、直接、サイクロン担当官からメールで知らせてくれることにもなりました。 ダーウィンはたいへん暑かったけれど、それにも増して人の温かい善意にふれることができました。
5 ダーウィンからクリスマス島へ
11月12日早朝、ダーウィンのフランシス湾を出港し、折からの引潮に乗りアイドル回転の機走で約8ktが出ていました。港の入口を示す航海標識を出たところから北の風12〜13ktを受けセイリングを開始し、先は、ダーウィンから真西に約500マイルの距離にあるアッシュモア・リーフAshmoreReef(南緯12度15分、東経123度04分)を目指しました。
その日の夕刻には風はだんだん北西にふれていき、真夜中にはほとんど向い風の西北西の風5kt程度まで落ちてしまいました。オーストラリアとインドネシア、ニューギニアで挟まれたアラフラ海、チモール海の潮の流れはたいへん複雑です。また、季節とか潮の干満によってもその流れは変化します。
この時期、ぽれーるがクルーズしているチモール海の潮はクルージング・ガイドブックによると東から西へ流れていることになっていましたが、実際にはその逆で東へ1〜1.5ktの流れでした。風がある程度吹いている時には気になりませんが、弱風とかカームになるとこの潮の影響は大きくなり、ほとんど前へ進むことが出来ませんでした。それどころか、4日目の15日にはマイナス10マイルの後戻りでした。
ぽれーるは基本的には港やマリーナへの出入り、パスの通過、やむを得ない状況、緊急事態でない限りエンジンを使った機走はしないことにしています。今までの航海でも風が無い時には何日でも風が吹いてくるまで漂泊状態が続きました。チモール海は風が無くなるとうだるような暑さで朝から強い日差しを受けたぽれーるのチークの甲板は素足では火傷しそうでとても歩けないほど熱くなっていました。
唯一の救いは、毎日正午頃、コーストガードの哨戒機がぽれーるの上空をローパスし、チェックを兼ねてぽれーるの異状の有無、付近の天候、付近の海上にサイクロンの発生の兆候がないことを無線で言ってくれることでした。たぶん、ぽれーるのポジションがほとんど変らず、故障かトラブルでもあるかと心配してくれていたかも知れません。
また、16日には、ダーウィンのサイクロン担当官とジュリアスからメールが入り、現在、ココス島北部で発生したサイクロンがココス島とクリスマス島の中間地点を南下中で注意するようにとの内容でした。ぽれーるの現在地から1500マイル彼方の海上のサイクロンで影響はありませんでしたが、知らせてくれたことに感謝しました。また、先程まで風の無いチモール海に向って「嵐でもいいから風よ吹いてくれ!」と叫んでいた自分を大いに反省しました。
結局、ダーウィンから500マイルのアッシュモア・リーフを通過するのに10日間を要しました。アッシュモア・リーフはまだオーストラリア領で、付近にはチモールから来ていると思われる漁船が約20隻ほど操業しており、リーフに入ってアンカリング出来ないことはありませんが予定よりかなり遅れているためここは通過することにしました。
(写真をクリックすると拡大します) ケアンズ 〜 ダーウィン 〜 ココス島 クルーズ
クリスマス島はアッシュモア・リーフから更に西北西に約1000マイルの距離にあり、一時は、このままの弱い風が続いたらいつクリスマス島にいつ到着できるかと心配しました。リーフを過ぎてから本来の南東の貿易風12〜14ktが吹き始め、安定したセーリングで進むことができました。ただし、この航行海面には凄い勢いで発達する積乱雲が至るところにありまました。
この雲の下は雷、強いスコールとそれに伴う40ktを超すような強風が吹き荒れ、雲の通過に従い風向がどんどん変っていきます。この積乱雲が通過して暫くすると再び何もなかったかのように穏やかな海面に戻ります。昼間は目でこの積乱雲を確認できるためこれらを避けたり、事前にセールをリーフして心の準備をして通過できますが、夜中は突然にこのようなストームの中に入ってしまうことがあります。
あわててセールのリーフをするためぽれーるを風に立てようとしますが、セールが凄い音をたててシバしとても手が付けられない状況になります。また、そういう時に限ってロープがクリートに引っかかったり何かのトラブルが発生し大あわてすることが多々ありました。赤道直下といえども強風の吹き荒れるスコールの中はとても寒く、また、ローリングやピッチングする船の上では悠長にシャワー浴びとはいきません。
やっと、このサンダーストーム地帯を抜出でたと思ったら、今度は風は強くないものの一日中激しい雨が続きぽれーるのキャビン内もかなり湿気てしまいました。このような雨の中でインドネシア船籍と思われる操業中の漁船とニアミスしたり、やはりインドネシアかチモールからと思われるたくさんの人を乗せた漁船に出くわしたりしました。クリスマス島に着いてから分ったのですが、この辺りはどうもオーストラリアへ密入国する人を乗せた漁船とか難民船が出没しているということでした。
ダーウィンを出て14日目の11月26日になって、やっとインド洋らしい海面に入り、ブリスベンから続いていた緑色の海から解放され、インド洋のブルーウォータの上を気持よくクルーズできるようになりました。インド洋は今まで見てきた太平洋と比較すると何故か水平線が遠くに感じられます。それは、晴渡った青空に同じような形をした積雲が水平線の彼方まで広がって遠近感を感じさせるためです。また、この頃になってトローリングにマヒマヒやツナがかかるようになりました。
12月1日はまだクリスマス島まで130マイル残していましたが、その夜はたいへん幸せな天体ショウがありました。夕刻からだんだん暗くなるに従い西南西の空に下弦の月と金星、木星が接近していて、ちょうど人の口と目になりほほえんでいるように見えるのです。オーストラリアでは「ハッピーフェース」と言われ、これを見ると幸せになると言われていました。その日の夜は雲は少しありましたが風も波も穏やかで、バックグランドミュージックにムーンリバーを聴きお酒を少し飲みながら、その夜空に浮んだハッピーフェースをいつまでも観ていました。
ダーウィンを出港して20日目の12月2日夕刻にクリスマス島の10マイル沖に到着しましたが、暗くなりはじめていたため、その日は海上ヒーブツーし、翌3日にフライング・フィッシュ湾に入ることにしました。
6 クリスマス島の思い出
私の持っているパソコンの百科事典で調べると「クリスマス島」と呼ばれる名前の島は世界に3カ所あります。一つは、かつてアメリカの核実験場であった太平洋中央にあるキリバス共和国のクリスマス島(北緯01度54分、西経157度23分)で日本の宇宙開発事業団のロケット追跡センターや飛行試験場があります。二つめはオーストラリアのタスマニア・キング島の左肩にあたる小さな無人島のクリスマス島(南緯39度42分、東経143度50分)、最後に今回、ぽれーるが寄港したインド洋オーストラリア領のクリスマス島(南緯10度29分、東経105度38分)です。
このクリスマス島はインドネシアのジャカルタから南南西に約270マイルにあり、南北及び東西が約10マイルの子犬のような形をした島は周囲をほとんど10mを越す断崖で囲まれています。平地が少なく海岸から直ぐ300mぐらいの山が続いており人々は島の北東部にあたるフライング・フィッシュ湾とその周辺で暮しています。また、島のほとんどは国立自然公園となっています。
12月3日朝の8時、クリスマス島フライング・フィッシュ湾から北に5マイルと近づいたところでVHF16chでハーバー・コントロールを何回か呼びかけましたがまったく応答が無く、フェデラル・ポリスにも何回か呼びかけましたが応答はありませんでした。クルージングで初めての港に入る時、いつも苦労するのがこの入港前の無線コンタクトです。よほど地元の事情を知っているか、しっかりしたクルージング・ガイドブックで正確な呼出し名と無線のチャンネルでも知っていないと、なかなかこちらからの呼出しに対して応答してもらえません。(私の英語の発音が良くないこともあります。)また、船の出入りの少ない小さな港では無線機のスイッチが入っていないこともあるようです。
ぽれーるが北太平洋を横断してビクトリアに着いた時もそうでしたが、「ビクトリア・ハーバー」といくら呼んでも応答はありませんでした。その時は30分ぐらい港の前で回り、他の船が交信しているのを聞いている内に「インナー・ハーバー」という呼出しを使っていることが分り、「インナー・ハーバー」を呼出すと一発で応答があり何とかなりました。また、ニュージランドに入国するためオプアに入った時も「オプア・ハーバー・コントロール」ではなく、先は「ラッセル・ラジオ」を呼出し入国通報をすることがレギュレーションになっており、その時は親切なアンカリング中のイギリスのヨットが無線で教えてくれました。
ぽれーるがフライング・フィッシュ湾から3マイルとなった時、やっと逆に「クリスマス・アイランド・カスタムス」がぽれーるを呼出したため、話が通じ手続のための事前打ち合せが出来ました。クリスマス島もこれから行くココス・ケーリングもオーストラリア領で、既にぽれーるはオーストラリアへの入国をブリスベンで済ませていましたが、これらの島に立寄るには入国時とほぼ同じ手続が要求されます。また、事前にオーストラリアのビザも必要です。
フライング・フィッシュ湾のアンカリング地には既に米国のカタマランが1隻ブイ係留していました。ぽれーるはアンカリング・ポイントを捜して湾内を回りましたが、海底が珊瑚で一杯でとてもアンカーを下ろすようなところを見つけることは出来ませんでした。結局、有料のブイに係留しカスタムスから指示された時刻が近づいたため取りあえずカヌーで近くのジェッティJettyに上陸しました。ほどなくカスタムスのピータとクオランティのジェーンが来てスムーズに入島手続が終り、港の管理事務所に行ってハーバーマスターにブイ係留したことを告げました。
クリスマス島は1643年の12月25日に英国の船長ウィリアム・マイナーによって発見されたためクリスマス島と命名されたそうです。島の主な産業は肥料の原料となる燐鉱石とダイビング等の観光です。19世紀の終りに英国が燐鉱石採掘のため中国人を労働力として使い、後にマレー人も導入したため、島の総人口約1200人の80%以上が中国人とマレー人です。
フライング・フィッシュ湾の北側には燐鉱石を船に積込むための薄茶色の施設と山側から伸びるベルトコンベアーが海側に突出ています。また、クリスマス島はクリスマス赤蟹で有名でちょうどぽれーるが訪れた時はその赤蟹が森から海へ、海から森への大移動をほぼ終った頃でしたがそれでも浜辺や街の中には赤蟹が一杯いました。赤蟹の大移動の最盛期には島中の道路の交通規制が行われ、道路や海岸に近い斜面は足の踏場もないほど赤蟹で真っ赤になるそうです。
ぽれーるがブイ係留している付近の海底には色とりどりの珊瑚が生育しており、海水の透明度が高いためか20mある水深が浅く感じられました。また、熱帯魚もたくさん泳いでおり、時々魚の群れが海面をざわつかせて泳いでいました。50mほど離れた海岸近くの海面では地元の人達が朝早くからスノーケリングを楽しんだり、ダイビングの人達がぽれーるの下の海底を行く様子がよく見えていました。
フライング・フィッシュ湾の中央海岸には50トンクラスの船が付けられるジェッティーがありますが、湾に常にうねりが入っているため着艇すると直ぐにクレーンに釣られてジェッティー上に揚げられていました。小型のダイビング船や釣に使うモーターボートは同じ海岸にあるスベリを使い車に連結されたトレーラー架台から直接海へ下ろされ、沖から戻って来ると再びスベリ使ってトレーラー架台に乗せられ車に牽引されて帰って行きました。
島内には中国のお寺がたくさんあり、また、停泊中のぽれーるからイスラム教のモスクも見えていました。そして、朝の暗い4時からコーランお祈りの声がモスクのスピーカーを通して湾中に毎日響いていました。クリスマス島に到着した夜、隣の米国のカタマランQueequegUの夕食に招待され、ワフーWahooというマグロの一種のステーキをご馳走になりました。
キャプテンのクウェインと彼の友人のジョン、レオの3人で世界を回っている途中、クリスマス島の直前でストームに遭遇しフォア・ステーの取付金具が壊れ、既に1ヶ月以上もクリスマス島で米国から送られてくる取付金具を待っているということでした。ぽれーるがクリスマス島に向う途中のチモール海にいて、サイクロンがクリスマス島の西300マイル付近を通過した時もこのQueequegUは湾内にブイ係留していて3mを越えるうねりに翻弄されたそうです。
キャプテンのクウェインは40年前の大学生の時、友人と二人でトリマラン・ヨットを製作し、シカゴの近くの自宅からミシシッピー川を下りメキシコ湾に出てパナマ運河を通り西回りに世界を一周した経験があるそうです。GPSもなければ満足な海図も入手できない時代に航海したその思い出の軌跡を再び友人と共に辿っているとのことでした。
ぽれーるがクリスマス島に滞在中、彼等とはよく交流しぽれーるの整備も手伝ってくれました。米国から部品が届きフォアステーのトラブルがフィックスした翌日の12月15日にケープタウンを目指し出港して行きました。その前日にクウェインから40年前のクルーズを記録した自作の本を彼のサイン入で私にくれ、米国に来たらまた会おうと言って別れました。
クリスマス島に到着した翌日から買物や周辺の散策に出かけました。スーパーマーケット、小さな商店、お土産屋、銀行とどこに行っても私が日本からヨットで来たことを皆さん知っていました。不思議に思ってそのことを尋ねてみると昨夜テレビ放送された島内ニュースで本人が知らないうちに日本のヨットぽれーるがクリスマス島に来たと紹介されていたということでした。
それもあってか、ツーリスト・インフォメーションでは係のリンダ、ダイビングショップのリニイ、ダイビング・インストラクターで島唯一の日本人の浜中さんとその日の内に知合うことができました。リニイのホームパーティーに招待されたり、みんなで土曜日の夕方、山の上の野外ステージで行われた映画を観に行ったり、ぽれーるで手巻寿司とカラオケで楽しい時間を過したりしました。また、浜中さんは仕事の合間に燃料の輸送や部品捜しにダイビングショップの車を使って手伝ってくれました。
この島の人達は皆さん気さくで道端で会うと挨拶し、荷物持って歩いていると車に乗せてジェッティーまで送ってくれました。ハーバーマスターにハードウェア・ショップの場所を尋ねた時も車でショップに連れて行ってくれ、買物が済むまで待っていてくれて、帰りも車でジェッティーまで送ってくれました。カスタムスのピータも電話で次に航海予定のココスについて電話で聞いたところ、直ぐに車でジェッティーへ来て私を彼のオフィスに連れて行き色々説明してくれて最後にまたジェッティーまで車で送ってくれました。また、トローリング帰りのモータボートが釣上げ切身にしたツナやワフーをくれたこともありました。
クリスマス島には1週間に一度ほどの割合で、コーストガードの1000トンクラスのトリマラン艦艇が来て中から40人程度の東南アジア系の人達を島に送って来ます。島側はそれらの人達を島のタグボートを使って2回ぐらいに分けてジェッティーへ運んでは大型バスに乗せどこかへ走り去って行きまました。後で分ったことですがこれらの人達はやはり東南アジアの難民でクリスマス島にある収容施設に運んでいるということでした。
ぽれーるの直ぐ横を難民を乗せたタグボートが通過する時、タグボートの甲板上に座らされコーストガードの警備員に取り囲まれていましたが、無言の中にもその人達の不安そうな顔付きと私の方をうつろな目で見つめ通り過ぎる姿はしばらく間私の頭から離れませんでした。近くの海岸で遊ぶ人達の楽しそうな歓声と難民の彼等が置かれた状況のギャップ、これも世界の現実で、そんな彼等に明るい将来が待っていることを祈るのみでした。
クリスマス島唯一のアンカリング地であるフライング・フィッシュ湾の難点は沖合からうねりが入って停泊中のヨット等は常に動揺していることです。カラオケをするため島の人がブイ係留中のぽれーるを訪れた時もリンダの旦那さんのファイと役場のアニーが船の動揺で船酔してしまいました。その点からかクルージング・ガイドブックによると長居は無用との評価を受けており、ほとんどの外来ヨット等は長くても1週間以内に出て行くそうです。結局、ぽれーるはサイクロン来襲を心配しながらも島の人々の温かい持てなしに2週間滞在してしまいました。
ハーバーマスター曰く「クリスマス島の良さは最低2週間滞在しないと分らない。」その点ではぽれーる「合格」だそうです。ただし、停泊料2週間分の100ドル(ブイ係留にしては少し高いです。)は1セントもディスカウントしてもらえませんでした。
7 ココス・ケーリング諸島の思い出
12月17日にクリスマス島を出港し、3日目の夕刻には西南西に約530マイル離れたやはりオーストラリア領のココス・ケーリングCocos Keeling諸島(南緯12度09分、東経96度52分)沖に到着、その日は沖合でヒーブツーし、21日の8時を待ってココスのカスタムスに無線で連絡、事前にクリスマス島のカスタムスのピータにココスではVHFは20chでカスタムスを呼出せばいいと聞いていたのでスムースに連絡がとれました。ただし、21日は日曜日のため、結局、カスタムスの係官は22日の月曜日の朝、7マイル離れたココスの中のウエストWest島からボートで来て入島手続をしました。
手続中の係官の質問で、サイクロンがココスの近くで発生し影響を受ける場合、どう対処するかという項目がありました。地元も漁船、フェリー、観光船はココスの中のホーム島のスベリを使って陸揚し、サイクロン・シェルターに入れるか椰子林の中で固縛するとのことでした。ぽれーるについても一応、外形寸法、重量、吃水等を聞かれました。
ココスは、1609年英国の船長ウィリアム・ケーリングによって発見され、英国の植民地から1984年に住民投票によりオーストラリア領となった二つのアットール(環礁)ノース・ケーリングNorth Keelingとサウス・ケーリングSouth Keelingからなる諸島です。住民が暮しているのは南に位置する大きい方のサウス・ケーリングで東西約7マイル、南北約9マイルのアットールです。
このアットールには5つの島が輪状に分布しており、西側に政府機関と飛行場のあるウエストWest島、東側に主にイスラムの人達が暮すホームHome島、南側に無人島のサウスSouth島、北側に無人島のホウスバーグHorsburgh島、ダイレクションDirection島があります。ぽれーるはカスタムスに指示された北側のパスに近いダイレクション島の内側にあるアンカリング地にたった1隻の停泊でした。ダイレクション島はサウス・ケーリングの中でも白い砂の海岸と椰子の木、コバルトブルーやエメラルドグリーンの海の美しい島として、休日にはこの島の人達もキャンプ、ピクニック、水泳、スノーケリング等を楽しむためやって来ていました。
入島手続が終り少し落着いたところで、南に約1.5マイル離れたホーム島へ観光と食糧品の買出しにディンギーで出かけました。ホーム島の内海側にあるジェッティーJettyには作業船と対岸のウエスト島との交通に使われているフェリーが繋がれていましたが、水深が1mぐらいで至るところに岩の浅瀬があり、とてもぽれーるでは近づけないことが分りました。また、カスタムスの係官が言っていたスベリは更にその奥の海岸にありました。ホーム島に上陸しマーケットを捜しながら付近を散策しました。このホーム島に暮しているのはもちろんオーストラリア国籍を持つ人達ですが、女性は子供を除くとほとんどの人が顔をベールで覆いイスラムのマントのような服をまとっていました。また、マーケットにはお酒類は一切置いていませんでした。
結局、ココス・ケーリングには3日間停泊し、サイクロンの地域を出て北半球のスリランカへ向うことにしました。23日に出国手続をするため、再びホーム島へディンギーで行き、ホーム島からフェリーに乗ってウエスト島へ行くことにしました。フェリーにはオーストラリアから来ていた観光客とホーム島に住む若いイスラムの女性達が乗っていました。彼女たちはフェリーがホーム島のジェッティーを離れるまではほとんど口も聞かずベールで顔を覆い物静かな様子でしたが、一旦フェリーがジェッティーを離れると急にお喋りが多くなりベールもとっていました。彼女たちが読んでいる雑誌は日本の若い女性と同じようなファッション関係の本でみんなでその雑誌を指さしてはニコニコしながら騒いでいました。彼女達とは少し話をしましたが、残念ながら写真は撮ることは出来ませんでした。
ウエスト島のジェッティーから乗合バスで10分ぐらい走ったところに飛行場と街があり、1週間に1度、オーストラリアのパースからの飛行便があった時のみ少し賑わいがあるそうですが、普段はレストランもすべて閉っており閑散としていました。街のコミュニティ館に行ってインターネットで天候のチェックとメールを送信し、出国手続を行い、マーケットで買物をしました。ウエスト島のマーケットにはホーム島と同じイスラムの人が経営しているということでしたが、こちらにはお酒やタバコも売られていました。
帰りのフェリーでは来たときと同じイスラムの女性達と一緒になりました。やはりホーム島に近づくまでは彼女たちは騒いでいましたが、フェリーがホーム島のジェッティーに着くと彼女たちはベールで顔を覆い、物静かなイスラムの女性に戻っていました。また、ジェッティーで彼女たちと別れる時、私が手を振ると7人いた内の一人の子がベールの間から見える目でニッコリとしてくれましたが、他の女性達は足早に視線を落して去って行きました。同じココスに住むイスラム系の若い男性は女性に比べるとかなりラフな格好でジーパンにTシャツ、日本の若者と同じように携帯電話とIPodに執心しているようでした。イヤホーンから洩れ聞えてくる音楽はイスラム系ではなくラップやロック系の曲でした。
ココス・ケーリングは本当に美しいところです。もう少し滞在して島の人達とも交流したかったところですが、やはりサイクロンのことが気にかかり去ることにりました。訪れる時期が違っていたらもっと楽しい出会いがあったかも知れません。
ぽれーる 関
8.ココスから赤道を越えてスリランカへ
ココス・ケーリングを12月24日のクリスマスイブに出港して針路北西で約1500マイル離れたスリランカのゴールGalle(北緯06度02分、東経80度12分)を目指しました。
4日間は南東の12〜14ktの貿易風を真後ろから受けランニング・クルーズし、約450マイル進んだ南緯7度付近でピタリと風が止り、ぽれーるは西から東へ流れる平均1.5ktの赤道反流の潮に乗り2日間どんどんスマトラ島の方へ流されました。
12月31日になってやっと吹き始めた風は目的地のスリランカ方向から来る北西の風で針路を北北西にとるのがやっとのことでした。そのまま4日間進み、1月4日17時35分(バングラデシュ現地時間)東経90度02分で赤道を越え北半球に入りました。
ぽれーるは2007年4月9日、メキシコからマルケサスに向う途中で赤道を通過して南半球に入って以来、636 日ぶりに北半球に戻りました。赤道祭とは言えませんしたが赤ワインで海の神ポセイドンに祈りを捧げ、カラオケ2時間の歌声でサイクロンに遭遇しなかったことを感謝ました。(余り関係ないような祝い方でした?)
北半球に入って3日間過ぎても期待していた北東のモンスーン風がなかなか吹いて来ません。また、ぽれーるは赤道反流の潮からなかなか抜出すことができませんでした。 予定のコースからかなり右にそれ、目的地のスリランカのゴールGalleまで約600アイルの北緯3.5度まで北上したところで風が北方向に変りはじめ、やっと針路を北から西方向に転ずることが出来ました。
1 スリランカの思い出(その1)
スリランカのゴールGalle港(北緯06度01分、東経80度13分)は2006年10月に反政府軍ゲリラ「タミールの虎」による爆発物を仕掛けた漁船の突入攻撃を受け、港内にあるスリランカNavy施設の一部が破壊され3人の兵士が死亡、30人ほどの兵士と民間人が負傷した事件がありました。
それ以降、ゴール港の警戒が厳重となり、地元の漁船を含むすべて船は入港時にスリランカNavyによる厳しい検査があります。また、夜中の港への出入りは禁止されおり、このゴール港周辺では写真撮影は厳禁となっています。 ぽれーるは1月11日の夕刻にゴール港の沖合に到着しましたが、当日が日曜日で暗くなり始めていたので一晩沖合でヒーブツーし明朝ゴール港に入ることにしました。
12日8時頃、Navyへ入港する旨の連絡を無線で行い、湾の中に入って指示された海面でアンカーを下ろしNavyの船内検査を待ちました。既に5隻のヨットが同じようにアンカーを下ろしてNavyの検査を受けており、検査が終了したヨットから次々と港へ入って行きました。
ぽれーるの順番がきて軽機関銃と小銃で武装し厳しい顔つきの6名の兵士を乗せたNavyのパワーボートが横付けされ、隊長格の若い少佐を先頭に4名がぽれーるに乗込んできました。少佐はかなり横柄な感じで船名と国籍を尋ね彼の持っているリストと照合していましたが、どうも「Polaire」という名前が見つからないようで船名を再度尋ねてきました。
私が彼の持っていたリストを見せてもらうとそこには「Blue Water Ocean Rally Yacht Race」参加艇とあり、私がぽれーるはラリー参加艇ではないことを告げると、今度はゴール港のエージェントに対し事前に入港の許可を取っているかと尋ねられました。私が初めてスリランカを訪れるので事情も分らないためエージェントには連絡はしていないことを告げると、彼は「ゴール港への入港は許可できない! 直ぐに湾内から出ろ」と言われてしまいました。
仕方なく私は彼にスリランカの首都に近いコロンボ港なら入港は可能かと尋ねましたがコロンボは自分の管轄ではないので分らないとしか言ってくれませんでした。少佐がパワーボートに乗移った時に、私は少佐に「私はあなたと同じように日本ではJapan Navyで勤務し4年前にCommanderでリタイヤした。スリランカと日本は親しい国なので、一度訪れたいと思っていたが残念だ。」(権威に対して権威で立ち向うのは好むところではありませんでしたが、相手がNavyだったのでつい言ってしまいました。)と言いました。
すると少佐は再びぽれーるにもどり、先ず姿勢を正して敬礼をしてくれ、「自分には港の停泊スペースを確保する権限はない。既にラリー参加のヨットが30隻ほど港内に停泊しており、これからも更に多くの参加艇がタイからゴール港に到着するため、ラリーに参加していないヨットの停泊スペースがないが、これから港に戻りエージェントと掛合ってくるので、しばらく待ってもらいたい。」と言って港へ帰って行きました。
30分ほどして少佐が戻って来て停泊スペースが確保できたので入港が許可されました。隊長の少佐は名前をカヒクルップKahi Kuruppuといい年齢は30歳、後日、ぽれーるを訪れ、ウイスキー、ジンとスリランカの国旗をプレゼントしてくれました。スリランカの人はよくお強請りをしますが、後にも先にもスリランカ人からプレゼントされたのはクルップ少佐一人でした。
話を聞くと彼には奥さんと小さな女の子がおり、このような外国の漁船やヨットの臨検任務は自分としてはやりたくはないが、彼が英語、フランス語、マレー語を話せるため、上から与えられた任務だそうです。また、何か困ったことがあったら連絡してくれるように言い、携帯電話番号、彼の住所を教えてくれました。
港の入口は監視塔とゲリラの船、フロックマン等の侵入を防ぐため、海底ネットのブイが二重に張られており、わずかに開いているブイの間を通り港内に入りました。港の桟橋には3000トンクラスの英国やロシアの調査船、また、パナマ船籍の外洋タグシップ、マレーシアの漁船、地元のタグボート、作業船等が係留されており、これらの船が港を出入りする時は海底ネットブイを一時的にNavyの作業船を使って移動していました。
夜間は完全にこの海底ネットブイで港の入口が封鎖されていました。 ぽれーるは大型船用のバースにバウアンカーを下ろしながらバックしスターンをロープで止める艫付をしました。係留が終ると早々エージェントの若い担当者が乗込んで来て入国手続の書類を作り始めました。私が自分で入国手続が出来るのでエージェントの(有料)手助けはいらないと言うと彼はスリランカではエージェントを通さないと入国は認められないということでした。
入国関係の書類が出来上って1ヶ月のエージェント費、停泊料、カスタムス、イミグレーション費用を含めUS200ドルも取られました。エージェントが帰るとカスタムス(税関)担当官3人がぽれーるに来てエージェントが作成した書類を見ながらアルコール類とタバコを見せるように指示されたため、ココスで買ったウイスキーを2本出すと「サンキュー」と言って持ってきたアタッシュケースに入れてしまい、カスタムスの印鑑とサインをくれました。
カスタムスが引上げると暫くしてイミグレーション(出入国管理)担当官2人が来て同じようにアルコール類を出すようにと言い、既にカスタムス担当官が2本持って帰ったと言うと「しまった!カスタムスの連中に先を越された。(話内容はシンハラ語で分りませんでしたが彼らの顔つきで想像できました。)」と互いに話しながら「仕方がない、今回はビールで我慢するか。」と勝手に決めビール半ダースを奪うようにしてアタッシュケースにしまい、カスタムスと同じように何も仕事らしいこともせず帰って行きました。
これで入国手続は終ったと思っていると今度は港の管理をしているハーバーセキュリティーが来て港の停泊許可とゲートパスを発行してくれましたが、やはりビールを取られてしまいました。こんなにあからさまに物を賄賂的に取る国は今までクルーズで訪れた国では初めてでした。もちろん、ぽれーるだけではなくすべてのゴール港を訪れた海外のヨットはその被害に遭っていました。
2 スリランカの思い出(その2)
アーユーボーワン(シンハラ語で「こんにちは」、「こんばんは」「さようなら」「おめでとう」の意味、胸の前で手を合わせ「ユ」にアクセントを付けながら言います。)
コホマダ(「元気ですか」) サニペン インナワ(「元気です」)ゴール港は2006年以降、24時間の警戒態勢がひかれています。ゲートには合わせて10名ほどの警察、ハーバーセキュリティー、Navyが土嚢を積み機関銃を備えものものしく警戒にあたっており、ゴール港やその付近では警備状況や施設関係の情報がゲリラへ流れるのを防ぐためか全面的に写真撮影が禁止されています。一度、ゴールの幹線道路の川にかかっている日本の援助によって造られた橋を撮影したところNavyの警戒員に見つかりカメラを取上げられそうになりました。
また、港内にも立哨が小銃を持って警戒にあたっており、明らかにヨッティーであると分っていても港内では要所要所で止められ、ゲートパスの提示を求められます。港内の海面には常に警戒艇が走り回っており、時々、夜中にゲリラのフロックメンを警戒して小型爆雷を水中に投込み、ヨットの中にいると「ドーン」という音と艇体に銃弾を受けた時のような衝撃を受けます。しかし、Navyの警戒員は小型爆雷の衝撃で浮び上がってくる魚を網ですくっていました。ゴール港のゲートを出たところには5、6台の小型三輪(昔のミゼットのような車)タクシーのツクツク(スリーホィーラーとも言う)とその運転手を含めた10人程度の若いスリランカ人がいつもたむろしています。彼等はヨッティーがゲートから出てくると必ずどこに行くかとか安い宝石店やマーケットを知っているので案内すると言って近づいて来ます。ゲートからゴールの街の中心地までは約2kmの距離あり、通常のツクツクの料金は高くても100ルピーですが彼等は平気で300〜500ルピーを要求し、あまり一般的でない10%ぐらいのチップも別に要求します。彼等は自分の勧めるお店にお客を連れて行くと紹介料をそのお店からもらうことができるからです。ある時などゲートを出て歩いていると「ヒデ! コンニチワ、イイトコロ、ショウカイスル」と片言の日本語で話しかけてきましたが、まったく面識もないスリランカ人でした。多分、ハーバーセキュリティーか誰かが私の名前をいくらかのお金で売渡したのではないかと思います。
ゴールの街のお店やマーケットでもツーリストと見られるとかなりの高額な価格をふっかけられることがあります。そういうお店に対しては「エパ(いらない)」と言うと20〜30%値引した価格にまけ、お店を出ようとするとほぼツーリスト価格になります。なお、ツーリスト価格とはスリランカの一般の人が物を買うときの市価よりも何割か高く設定されている価格です。一般のスリランカ人から見れば、外国のツーリストやヨッティーは裕福な人々と映り、そのような人に対しては少し余分にお金を請求しても仏様の罰はあたらないと考えているようです。もちろん、私は通常料金にチップをプラスして渡す程度は心がけています。
また、スリランカでも少しお金に余裕がある人たちが買物をしているスーパーマーケットでは日本と同じように価格が表示されており、時々、利用してスリランカにおけるものの価格の基準を把握するように心がけていますが、スリランカは私が今まで訪れた国の中で一番物価が安い国です。コロンボやゴールの繁華街を歩いていると片言の日本語を話しながら好青年に見える若者が「お金はいりません日本人が好きだからいいところに案内したい」と言って近づいて来ます。そして、お寺等に連れて行ってお祈りをしながら2004年のツナミでスリランカは大変な被害を受けたのでかわいそうな被害者にUS100ドル寄付してくださいと言って結局自分のためにお金を要求してきます。
そういった人たちも結構敬虔な仏教徒であることが多く、このたかり屋的な精神と仏教徒としての気持のギャップは最後まで理解できませんでした。しかし、私がそういった要求を拒否すると彼らは結構諦めも早く今度会った時はいいところを案内し決してお金は要求しないと言って別れました。三輪小型タクシーツクツクを利用する時は最初に価格を決めて乗込みます。しかし、降りる時になると運転手は道が混んでいて早く目的地に着くために回り道をしたので、最初の約束した価格の倍額が欲しいと要求することもあります。
スリランカの人々は食べ残しや紙くず、ビニール等のゴミを平気で道ばたや公共施設の中でも捨てています。町の中はゴミゴミしておりたくさんのカラスや野良犬等が群がっています。こういった人々も自分の家は結構綺麗にしており他人が敷地内にゴミなどを捨てると怒ったりします。ただし、食べ残しを道ばたに置くのは野良犬等に食べ物を与えるという生き物に対する施しの心からそのようにしているようです。一方、スリランカの子供たちはたいへんかわいく純粋でニコニコしており、道を尋ねるとわざわざ案内してくれても決してお金は要求しませんし、こちらが渡そうとしても受取りません。
家庭でもスリランカの子供達は親から大切に育てられているようで、バスや列車に乗っていても親子連れを見るとその様子がよく分ります。また、スリランカの専門学校や大学の学生、一目でエリートらしいと思われる人々も親切です。しかし、一般的には大人になり生活がかかり出すとほとんどの人がお金に執心するようになるようで、特に都会にいる人はその傾向が強いようです。ちなみに、スリランカは英連邦の一国ですが国の名前「スリランカ民主社会主義共和国」と国際的には社会主義の国です。しかし、スリランカの人の宗教といい、お金への執心といい、また、人々の頭の中に残るカースト制、浮浪者等の多さからは決して社会主義の国だとは思われません。ただし、小学校から大学等までの教育費等は無料だそうです。
3 スリランカの思い出(その3)
ゴールに入港した翌日の13日にはハーバーセキュリティーのヘラHeraと知合い、彼の夜勤あけにヘラのスクーターに二人乗りし、彼の家に招待されてお酒や食事をごちそうになりました。彼は35歳で家族は奥さんと小学校に通う二人の女の子タニアとイマーリ、彼の妹のセルニャーの5人でゴールの街の郊外に住んでいました。もちろん、彼は親切心だけから私を誘ったのではなく、港の警備の本業のほかにサイドビジネスとして海外のヨッティーを相手に旅行の斡旋、宝石やお土産店等への紹介でお金を稼いでいるようでした。
彼が14日からセイロン島の中央にある故郷のナーランダNalandaへ彼のエアコン付の車で帰るので道すがら観光を兼ねて私を連れて行きたいと言いましたので話に乗ることにしました。もちろん、彼も商売ですから有料で1日あたりの旅行費用が6000ルピー(100ルピーは80円ぐらい、スリランカの人の月給平均は2万ルピー以下)で車代、ガソリン代、宿泊、食事料込みの価格です。彼にとっては帰郷と商売の一石二鳥の話だったようでした。彼は警備員の位からすると下の方ですが英語が堪能なためゴール港ではちょっとした顔役で上司にもかなり賄賂を渡し、適当に休暇を取ってはサイドビジネスに精を出しているようでした。
14日早朝、ヘラのかなり古い少しくたびれた荷物運搬用の日産バネットで港を出発し、先はゴールから海沿への道を北へ進み117km離れたコロンボを目指しました。運転しながらヘラは日本の車は素晴しく古くなってもよく走ると言っていましたが、エアコンは故障し後ろのブレーキランプは右側だけしか点いていませんでした。スリランカには道に沿って多くのお寺があり、敬虔な仏教徒であるスリランカの人々はすべてではありませんが自分が信じている宗派のお寺では車を止め、お祈りとお賽銭を入れていました。また、乗合いバスもそういったお寺の前では止り、車掌役の男性が走って行ってお賽銭を入れて拝み、再び発車していました。
そういった敬虔な仏教徒の反面、車の運転は非常に荒く、警笛をけたたましく鳴らし歩行者や小さな車、バイクを蹴散らし対向車がある時もカーブで先が見えない時にも追越しをかけながら車を走らせます。また、乗合いバスはお年寄や子供が乗降しない時は停留所でも完全に止ることはなく、動いているバスに飛乗り飛降りなければなりません。もちろん、バスの前後のドアは常に開けっぱなしで走っています。ヘラは自分では安全運転手と言っていましたがとてもそうとは思えませんでした。少しでも車のスピードをおとすと後ろから警笛をしつこく鳴らされ追抜きや割込みをされてしまいます。
スリランカの幹線道路は一応舗装されていますがガタガタでした。その上を小型三輪タクシーツクツクが走り回り、二人や三人乗りのオートバイ、大型乗合いバスがすごいスピードで荒っぽく走っています。コロンボ市内の少し広い道では横断歩道とはいえ渡り切るにはかなり車に気を付けないと危ない目に遭います。ここスリランカでは車の所有が富の象徴であり歩行者よりも車の通行が優先されています。また、太っていることも富の象徴でこの国の大統領や首相、国会議員のほとんどの人が太っており、街角にはそういった人のポスターが多く貼られています。
ヘラの車は午前5時にゴールを出発して8時過ぎにコロンボ市内を通過し、コロンボからセイロン島の中心に向って山道を進み5時間たった10時過ぎにケガルKegalleに着きました。ここでは象園に行って象に乗ることになりました。私はドライブですっかり疲れていましたが初めて象に跨り林の中を王者になった気持で少し緊張しながらも約30分象に乗りました。架台のない象の背中に薄い布をかけてその上に直接跨るため、のり心地は決してよくなくゴツゴツした象の背骨がおしりに当り痛く、多く揺れる背中の上で落ちないように両足で挟み象の首に巻かれた麻縄を掴んでいました。
この象公園には日本の有名な動物博士の畑さんも来て象に跨っている写真が飾ってありました。ケガルから少し山に入ったティープラントで休憩し甘いセイロン紅茶を飲み、お茶の製造工程を見学したり、茶畑で働く茶摘の人たちと写真を撮ったりしました。更に山奥にスリランカの古都カンディーKandyがあり日本の京都のような観光地で昔つくられた人工の湖の側に建つ王宮跡や仏陀の歯を祭った仏歯寺があり多くの観光客で賑わっていました。王宮跡では案内人へのヘラのチップの金額が効いたのか普通の観光客では入れないところまで案内してもらい、当時の王様しか見られなかったという王宮のテラスからカンディーの街を眺めることができました。
カンディーの街中とそこから伸びる道路はたいへん交通量が多く混んでおり、その中でヘラは前の車と接近し過ぎてスピードを上げていたためカンディー郊外で前の車が止ったのに気がつくのが遅れて急ブレーキをかけましたが間に合わず衝突事故を起してしまいました。どうも仏様に対するお祈りと賽銭が少し足らなかったようでした。私が公平に判断しても止っている車に衝突したのですからヘラに過失があると思いますが、かなりの剣幕でヘラも前の車の運転手も言争っていました。ただでさえ混んでいる道がこの事故のため大渋滞となってしまいました。私が車から降りて道の脇でその様子を見ていると警察官が通りかかりましたがまったく事故には関心がないようでそのまま行ってしまいました。
スリランカの一般の人はこの種の事故に関心があるのか、20名ぐらいの通りかかりの人がわざわざ自分の車から降りてきて双方の言分を聞いており、中には本来警察官が行う交通整理までやる人とか知っている修理屋さんに電話をかける人、仲介をする人等が集ってしまいました。結局、追突された方のドライバーが無免許だったため公にしないということで、ヘラが2000ルピー渡して話はつきました。この間約40分、夕方の帰宅ラッシュの中、この事故で起った渋滞で多くの人が迷惑を被ったことだろうと思います。
ヘラの故郷のナーランダにはその日の18時半頃到着し、あらかじめヘラが予約していた田舎のホテルに泊ることになりました。ホテルと言ってもドアの鍵が壊れていたり、シャワーはお湯は出なく、コンセントにはまともに電気は来ておらず、多分一泊1000〜1500ルピークラスの宿屋です。夕食を済ませちょっと休憩してからその夜、ヘラのお姉さんの家と両親が暮す実家を訪ねることになりました。
お姉さんの家には15歳になる名前がコーナーラという中学2年生ぐらいの少年がいて、いろいろ話をすることが出来ました。彼は日本の少年と同じように少しパソコン・オタク的なところがあり、将来はゲームプログラマーになりたいという夢があるそうです。ヘラの実家ではヘラのお父さん、お母さんと妹さんに会いましたが、その時、ヘラは普段と違って両親の足下にひれ伏して挨拶し、別れる時も同様な挨拶をして帰りました。スリランカでは僧侶に会う時別れる時、久しぶりに会った目上の人に対しては同様のやり方で挨拶するそうです。
15日朝、ヘラ、ヘラのお姉さん、その子のコーナーラと私の4人でシーギリアの王宮跡、ダンブラーDambullaのロック寺院を見学し、帰りにはスパイシーガーデンを訪れました。その夜は、一日目と同じホテルに泊り、そのホテルや近くの農園で働く若者達とホテルのレストランで片言の英語でしたが話をすることが出来ました。彼等は私がクルーズで巡ってきた国のことを聞きたがり、いつかは海外へ行ってみたいがお金持か国会議員等のコネがない限りスリランカでは海外へ行くためのビザの取得は不可能だと言っていました。この田舎のナーランダまで来て初めてあまりお金に執心しない若者に会った気がしました。
16日はホテルを9時半に出て、来たときと全く同じ道を逆に戻りゴールに向いました。ナーランダを出るところで、何故か分りませんがヘラが応援する故郷の国会議員の家に寄って私をそこにおいたままヘラは1時間ほどどこかに行ってしまいました。残念ながら選挙遊説中で議員先生には会うことは出来ませんでしたが、留守番をしていた一人娘の15歳のサリーニが紅茶を入れてくれ、私の話相手になってくれました。彼女の将来の夢は彼女のお父さんと同じような政治家になることでそのため英国に留学して政治学を学びたいということでした。
再びヘラの車に乗りカンディーの手前の小さな町でヘラの案内する多分彼が案内料を貰う提携先の宝石店とお土産屋をまわることになりました。ヘラがお店に入る前に少し私に対して気が引けたのか「今から案内するお店は少し市価よりも高いので買わなくていいから見るだけは見てほしい」と言いました。昼食はカンディーのやはりヘラの友人が経営するレストランでとりました。カンディーの街には観光客をあてにしたかなりの数の浮浪者がメインストリートの道ばたに座り込んで物乞をしていました。その中の小さな女の子を連れた30歳過ぎの母親に対しヘラが少し話し込んでから約300ルピーのお金を渡していたのが印象的でした。
途中、ケガルの近くでお巡りさんのヒッチハイカーを乗せて走りましたが、ヘラの運転は来たときと同様に荒っぽく(多分スリランカでは標準ドライバー?)、横断歩道を渡ろうとしている人を警笛で威圧し、バイクやツクツク等の小型車両を歩道側に蹴散らしながらどんどん走っていました。昨日の追突事故はいったい何だったのかという私の思いと、反省のまるでないヘラの運転ぶりを横で見ながら彼が気持よく歌う「キサーラ〜・・・」という昔のスリランカ王国の物語を語る歌を聞きながら、きっとヘラはカンディーで行った浮浪者の親子に対する施しで彼は仏様から守られていると思っているのだと考えていました。
ゴールには夕刻に着き、その日はヘラの家に泊りましたが、その夜はヘラは何故か浮ばぬようでした。多分、追突事故の件で奥さんからかなり絞られていたようでした。彼のこのゴールの家はもともと奥さんの家でここでは彼も奥さんにかなり気を遣っているようでした。彼にはあんなにかわいいタニアとイマーリがいるのに彼は男の子が欲しいそうです。しかし、彼の奥さんはヘラの給料では3人目はダメだそうです。結局、夜遅くまで彼と飲み明し、ヘラの愚痴を聞くことになりました。ヘラは海外から来るヨッティーを相手にサイドビジネスでかなり頑張っていますが家庭では奥さんに頭が上がらないことが分り、少しかわいそうな気がしました。
ヨット仲間レオLeoから悲しい内容のメールが届きました。
クリスマス島で約1週間、ヨット仲間としてぽれーるの整備を手伝ってくれたり、パーティーやカラオケでお互いのヨットを行き来していた米国のカタマランヨットQueequeg II(44ft)(クウェインQuen63歳、ジョーJoe63歳、レオLeo58歳)が1月20日にマダガスカルの東200マイルの海上でサイクロンに遭遇して遭難し、スキッパーのクウェインとその友人のジョーが行方不明になっています。レオはかろうじて転覆したヨットにつかまり、2日間嵐の海を流され、たまたま通りかかった韓国の貨物船に助けられ、現在は米国の自宅にいるとのことでした。
(写真をクリックすると拡大します) マイ・ウェーを歌うクウェインと横で聞いているジョー
Queequeg II はアメリカのフロリダから西回りに世界一周を目指していましたが、クリスマス島の手前でストームに遭ってフォアステーの取付金具が壊れたため、クリスマス島で約1ヶ月半停泊し米国から空輸されてくるフォアステーの取付金具を待っていました。米国から部品が届きフォアステーのトラブルがフィックスした翌日のぽれーるよりも2日早い12月15日にケープタウンを目指しクリスマス島を出港して行きました。
前日、お互いの今後のクルージング・コースについて話合った時、私からこの時期ケープタウンを目指す南インド洋のコースはサイクロンに遭遇する確率が高く、ぽれーると一緒にスリランカへ行かないかと誘いましたが、彼等は予定していたスケジュールから既に1ヶ月半遅れており、米国でそれぞれの仕事等の都合もあるため、Queequeg II はこのままダイレクトに約4900マイルも離れたケープタウンを目指すことになりました。最後にクウェインから40年前の彼が大学生の時に世界一周しクルーズを記録した自作の本を彼のサイン入で私にくれ、米国に来たらまた会おうその時は共に東海岸をクルーズしようと言って別れました。
(写真をクリックすると拡大します) ヨットQueequeg II
Queequeg II が1月20日に遭難し約1ヶ月たった現在、行方不明になっているクウェインとジョーの捜索救難がどのように行われているのか続いているのかを知ることができません。レオのメールによるとライフラフトを展張するひまもなく大波で転覆し、荒れ狂う真っ暗な海上ではお互いの無事を確認することもできなかったそうです。どうか、どこかでクウェインとジョーが助かって無事でいてくれることを祈るのみです。
World Cruising Yacht "Polaire"
ぽれーる 関