2012/01/24 パナマからタヒチへの航海(ぽれーる通信 No.39)


「明けまして、おめでとうございます。今年が皆様にとって幸せな年になりますよう旅を続けているぽれーるからお祈り申し上げます。」

2011年の日本は大震災や台風、経済の低迷等でたいへんな困難と苦労の年であったことはぽれーるもいつも心を痛める思いがしていました。そんな困難な中でも秩序が保たれ日本の人々のお互いを思いやり助け合う姿は世界の多く人々を感動させています。技術や経済力だけで評価される日本ではなく、日本に住む人々の素晴らしい人間性に対する評価が一段と高まったような気がします。 日本の復興にはまだまだ困難な年が続くと思いますが「絆」を重んじる日本の人々はこの困難な状況を乗り越えるとヨット仲間も世界の人々も信じています。ぽれーるが掲げる「日本国旗」に対しても心なしか世界の人々の注目が高まったような気がします。また、ぽれーるも私も「日本国旗」を掲げていることを誇りに思っています。

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南太平洋・日の出

南太平洋・日の出

ぽれーるは、現在、モーレア島オプノフ湾(南緯17度30分、西経149度51分)に停泊しています。11月9日にツブアイ島(南緯23度21分、西経149度29分)からタヒチ島のプナアウイアPunaauia(南緯17度35分、西経149度37分)に到着し、修理と整備が一段落した12月31日にプナアウイアから静かで景色のいいオプノフ湾に移動しました。タヒチ島は2006年7月に東京を出港してから今回のクルージングでは2度目の寄港となり、ぽれーるはここタヒチ島で4年4ヶ月をかけて世界一周(2007年7月26日タヒチを出港しクックに向かい、地球を西回りしてタヒチ島に到着)を達成したことになりました。

タヒチに到着してから既に二ヶ月を過ぎていますが、いつものように「ぽれーる通信」が遅れてしまって本当に申し訳ございません。どうも最近、ぽれーるは停泊ぐせがついてしまったようで修理や整備の時以外はただぼんやりと過ごしている時間が長くなりました。

ぽれーるは2006年7月8日に東京を出港して北太平洋、カナダ、アメリカ西海岸、メキシコ、南太平洋、インド洋、ケープタウンを回り大西洋、カリブ海、パナマ運河を経て再び太平洋に戻って来ました。

ぽれーるが東京を出港してから2011年11月9日のパペーテ到着に至るまでのクルーズ記録の概要は次の通りです。

 
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Polaire Around the World

201111 Polaire Around
the World Flag Tahiti
Around the World Tokyo-Tahiti

ぽれーる航海記録
Around the World Tokyo-Tahiti


最近のクルーズと二度目の太平洋 ( パナマ )

ぽれーるは4月19日にジャマイカからパナマのカリブ海側でパナマ運河の入口にあたるコロンに到着し、カリブ海で会合し別れた日本のヨット「ハーモニー6」や「シーガル」に久し振りに再会することができました。コロンではシェルターベイ・マリーナに停泊し、運河通過申請を行い約20日間待たされて5月9日及び10日の二日間でパナマ運河を通過しました。パナマシティーではパナマ日本人学校の生徒さんや先生、JICAパナマの日本人ボランティアの方々、日本のヨット「アン・ルシア」や海外のヨット仲間及びパナマ海洋大学での学生さん達と交流し、また、パナマシティーを訪れた海上自衛隊練習艦隊との会合等と気が付くとパナマシティーに約2ヶ月半も滞在してしまい、二度目の太平洋クルーズの開始は8月初旬になってしまいました。クルージング・ガイドではパナマからガラパゴスに向かうヨットクルーズは12月から3月がいいと言われており8日前後(距離約900マイル)でガラパゴスに到着することができます。

パナマのアルバム (写真をクリックすると拡大します)
パナマ・ロッドマン埠頭にむかう海自練習艦「かしま」

パナマ・ロッドマン埠頭
にむかう海自練習艦
「かしま」
パナマJICAボランティアの方々と

パナマJICAボランティア
の方々と
パナマシティーに停泊中のぽれーる

パナマシティーに停泊中の
ぽれーる
パナマ運河

パナマ運河
パナマ海洋大学で

パナマ海洋大学で
パナマ日本人学校

パナマ日本人学校

( パナマ 〜 ガラパゴス )

すっかり出遅れてしまったぽれーるはパナマシティーを8月6日に出港しガラパゴスに向かいました。この時期、パナマ周辺及びパナマ湾には積乱雲がいたるところに発生しており、これらの積乱雲のほとんどが発達して強いスコールと雷及び30kt程度の強風を伴っていました。航海中、昼間はスコールが遠くからでも視認できるのでこれらのスコールに伴う強風地帯に突入しても事前にセールをリーフ(縮帆)したり進路を適切に選択できるので雷を除けば特に問題になることはありませんでした。また、夜間のクルーズではスコールを視認できない場合が多いため事前にセールをリーフしておいて突然の強風地帯への突入に備えるのが普通でした。

6月、7月にパナマシティーを出港してガラパゴス方面に向かったヨットは約10隻でしたが約半数が強風等でセールやリギングを痛めたり洋上で避雷したりして再びパナマシティーに引き返して来ていました。知り合いになっていた米国ヨット「パッション」のドンとジュリーも7月20日にガラパゴスへ向け出港しましたが、一週間後に強風でメインセールのファーリング金具を壊してパナマシティーに帰って来ていました。そして、彼らは来年の1月までパナマシティーに止まることを決めていました。ドンは私に対しても「この時期のパナマ湾は無風か強風のクレージーな天候が続いているので少なくとも12月までは出港を待った方がいい。」と忠告してくれました。

ぽれーるは今年中に南太平洋をクルーズしてニュージーランドまで到達したかったことと、こんな中でも半数のヨットはガラパゴスかエクアドル本土に到着していることから天気予報を見ながら西風が4、5日続く状況の中でパナマシティーを出港しました。天気予報通り3日間は風は弱いながらも、また、いくつかのスコールも通り抜けながらも比較的順調にクルーズすることができました。

パナマシティー出港後の四日目の10日午後、その日は朝から西の風10kt前後でぽれーるはフルセールのジブとメインで3〜4ktとゆっくりと南に針路をとっていました。ぽれーるの周辺にはかなりの数の積乱雲がありましたがスコールを伴っている積乱雲は3つでした。一つは約30分前にその中を抜けて来て既に遠ざかりつつある後方のスコール、一つは約5マイル前方にありゆっくりと東に動いていました。最後の一つはぽれーるから約5マイルの東側にあり風下側で当然西風に流されてぽれーるから遠ざかって行くものと思っていました。しかし、その東側にあったスコールはみるみるうちに発達して周辺を夜のように暗くし今まで吹いていた西風を突然東風に変えてぽれーるに近づきはじめました。今まで出会ったスコールとは違って強風のためか波頭が吹き飛ばされ海面上100mぐらいの高さまで白い層を伴ってぽれーるに向かって来るのが見えました。

セールをリーフしてこのホワイト・スコールに対処するため油圧ファーリングのスイッチを入れジブセールのリーフのボタンを押しましたが先程まで正常に作動していた油圧ファーリングがまったく作動しませんでした。何回か電源を「ON、OFF」して同じように操作を繰り返しましたが状況は変わりませんでした。動揺する心を押さえて船内に降りエンジン・ルームにある油圧ファーリング・システムをチェックすると油圧ポンプは回っているものの横に付いている油量を示すメータがほとんど「0」になっていました。まさかと思いキャビンの床板をはがしてみると艇底に多量の作動油が溜まっていました。油圧ラインのどこかが破損し私がリーフ・ボタンを何回か押し続けたため油圧ポンプから送り出された作動油が破損箇所から漏れ出てしまったようでした。

コクピットに上がるともうすぐ近くまでスコールと強風地帯が近づいていました。ぽれーるの油圧ファーリングシステムには緊急時の手動ファーリング機能がありますが作動速度が遅く、また、ギアボックスのあるバウ(船首)やマストに行ってギアボックスのサイドに出ている手動シャフトにプーリーを取り付けロープをかけて回す必要がありました。この時点で既に20kt前後の風が吹き始めており手動によるセールのリーフは手遅れの状況でした。残された手段は風を背に受けて強風を少しでも軽減するために針路を風下にとることしかありませんでした。しかし、風速が40ktを越えた時点でフルセールのパワーが大きすぎてステアリングによる操舵ではぽれーるの針路をコントロールすることが難しくなりました。更に風速は50ktに達し夜のような暗さの中でそこいら中に雷が落ち、すごい勢いで飛んでくる雨と海水で目も開けておられない状況でした。

操舵によるコントロールが効かなくなったぽれーるは強風で急激にバウを風上に切り上げ横からの強風を受けてノックダウン(横倒し)、起きあがろうとして再びノックダウンする状態が何回か続きました。ジブシートをゆるめて少しでも風を逃そうとしたところ誤ってジブシートがウィンチから外れジブシートがフリーの状態になってしまいました。ジブセールは強風下と滝のような横殴りの雨と海水の飛沫の中で大きな音と共にシバを繰り返し、ジブセールのリーチ部にあるUVカバーが裂けてその破片が飛び散り始め、セール生地のリーチエンドカバーが何カ所も吹き流しのように激しくたなびいて一部は嵐の中に吸い込まれるように飛んでいきました。目の前でセールのリーチエンドががバラバラになっていくのを為すすべもなく見ることになりました。また、その時点でメインセールも3カ所裂けていました。

強風は30分ほどで通り過ぎましたが何時間も嵐の中にいたように感じました。強風が通過した後は何事もなかったように青空が広がり湖のような静かな海に戻っていました。一瞬、先程の嵐の出来事は夢であって欲しいと願い目を閉じましたが、破損したジブセールとメインセールの姿で現実に引き戻されました。ぽれーるの周りの海上にはまだまだ多くの発達しそうな積乱雲があり、とても起こってしまった災難を嘆いている暇はありませんでした。一刻も早く油圧ファーリングシステムの不具合に対処しする必要がありました。床板を外しながら作動油漏れ箇所を流れ出た跡からたどっていくと前部キャビンからであることが分かりました。前部キャビンには予備セールをはじめ丸くまとめたワイヤー、長いステンレスパイプ、修理用の木材、ダイビングセット、予備部品を入れた大きな箱、ディンギー用品、工具類といつの間にか貯まってしまった不要品のような荷物で一杯でした。

前部キャビンのほとんどの荷物を中央キャビンに移動し床板を外したところ作動油の漏れ箇所が分かりました。頭の中では油圧ラインの繋ぎ目であって欲しいと願っていましたが残念ながらホースの途中からの油漏れでした。繋ぎ目からの油漏れであればシールテープと増し締めで対応できる可能性がありました。ぽれーるには油漏れを起こしている12mほどの長さの油圧ホースの予備はありませんでした。暫くの間考えていましたが同じ前部キャビンの床下を走っているステイスル油圧ラインの片方のホースを油圧ポンプ出口から外し前部キャビン床下まで持ってきて、ジブセールの油漏れを起こしているホースを外してこのステイスル油圧ホースをジブセールラインに繋ぎことにしました。ただ、この方法ではステイスルボタンを押すとステイスルとジブセールが同時に作動するか、または負荷が大きすぎて両方とも動かない可能性がありました。考えている暇などないと思い直ぐに実行にかかりました。

この作業もやはりたいへんでした。油圧ラインは各所でクランプ止めしてあるため、エンジンルームや中央キャビンの床板を再び外す必要がありました。そのためには中央キャビンに移動した荷物を再び移動する必要がありました。この作業に約2時間を要しましたが何とかやり終えることができました。そして、油圧ファーリングの電源を入れ再びファーリングのボタンを押しましたがやはりファーリングはメインもジブモまったく作動しませんでした。どうして動いてくれないのかと思いつついろいろと原因を考えている時、すっかりファーリングシステムの作動油量が「0」になっているのを忘れていたことに気が付きました。しかし、作動油の予備は補充用として持っている2リットルしかありません。ぽれーるの油圧システムの正常な作動油量は12リットルでとても足りませんでした。

どうするか考えたあげく作動油2リットル、手持ちの酒類の赤ワインボックスのワイン5リットル、750ミリリットルのウィスキー2本、ウォッカとラム酒の残り分約500mlの計約9リットルを作動油タンクに注入することにしました。緊急の場合とはいえこんなに多量のアルコールを入れてぽれーるが酔っぱらってしまわないかと思いつつ、当分は酒がないので休肝日。後刻、ガラパゴスで油圧用の作動油を捜しましたが見つからず、代わりに車のオートマチック・トランスミッション・オイルとすべて入れ替えました。) 再び電源を入れ作動させてみるとメインセールは正常にファーリングできましたがジブセールとステイスルはリーフ方向に2回転程したところで止まってしまいました。

やはり2つのギアボックスでは負荷が大きすぎるのかと考え前部甲板にあるステイスルのギアボックスの側面カバー外しウォームギアを回している平歯車を外し少しでも負荷を軽減することにしました。再び電源を入れ作動ボタンを押したところジブセールはリーフ方向にゆっくり1回転ほどして再び止まってしまいました。作動油の漏れはなく油圧ポンプも正常に動いていることからバウへ行ってジブセールのファーリング・ギアボックスを調べたところ通常であれば手動シャフトを手回しできますが、その時はまったく重くて回すことができませんでした。手動シャフトに専用のプーリーを取り付けプーリーにロープをかけて回そうとしましたがプーリーの半径が6cmぐらいでモーメントが小さ過ぎて私の全体重をかけるような力でロープを引きましたがほとんど回すことができませんでした。

ギアボックス内のベアリングかギアのかみ合わせに不具合が発生していて油圧モーターの力では回転させることができないと判断しました。そして、何とかフルセールに近い状態のジブセールを手動で巻き取ることができないかと考えました。後になって考えればジブセールをフルセールに戻し、ジブセールを下ろしてしまう方が時間的にも方策的にもよかった思いましたが、その時は頭の中の混乱と焦りからかジブセールを巻き取ることしか考えることができませんでした。急遽作動シャフトの径に適合するピン孔付きの六角ソケットを少し加工して取り付けそのソケット孔に適合するボルトの頭を入れナットを二重にかけて腕の長さが約40cmある一番大きなモンキースパナで回すことにしました。

油圧ファーリングが正常に作動しているとジブセールのフルの状態から完全に巻き取るのに要する時間は15秒程度ですが、手動ファーリングでは大きなスパナにもかかわらずかなり重たく、また、バウパルピット(船首手すり)等の構造物がジャマになるため一回に60度程度しか回すことができませんでした。手動シャフト60度の回転はギアボックスの中でウォームギアをかえしてファーリングシャフトを回しますがその角度はたった10度程度でした。嘆いていても誰かが手伝ってくれるわけでもないのでただ黙々と巻き取り作業をするしかありませんでした。結局、ジブセールを完全に巻き取るのにまた約2時間もかかってしまいました。そして、巻き取ったジブセールの4カ所から2m程のリーチエンドが帯状になってたなびいていました。

今後の南太平洋クルーズではギアボックスを直しジブセールを交換するか修理しない限りジブセールの使用は諦めざるを得ない状況でした。周りはいつの間にか暗くなり始め身体はすっかり疲れ切っていましたがメインセールの裂けた箇所を何とかしなければなりません。メインセールがマストに取り付いた状態で応急修理をすることにし、ファーリングで巻き取り量を調整しながらマストに上り裂けている箇所にセール補修テープを両面から貼り付け、修理箇所が変わるたびにマストから降りてファーリング量を調整し再びマストに上るという作業を10回ぐらい繰り返しました。一応の作業が完了したのが夜中の10時頃でその間幸いにも強風を伴うスコールに遭うことはありませんでした。

キャビンにもどり落ち着いたところで今後のクルーズ方針を検討しました。この時点でぽれーるはパナマシティーから南へ約250マイルの地点に達していました。一つはこの状態でパナマシティーに引き返して修理を行う。一つはエクアドル本土にあるマリーナ等へ行って修理を行う。一つはコスタリカかその沖合にあるココ島へ行って修理を行う。最後はこのままガラパゴスを目指すということが浮かびました。結局、最後の案の「このままガラパゴスを目指す。」ことに決めました。パナマシティーに引き返さなかったのはぽれーるがほぼパナマ湾に続くスコールと強風地帯を脱する位置に達していたことでパナマシティーに引き返すことは再び荒天に遭遇する確率が高くなると考えたからです。エクアドル本土行きについては途中治安のよくないコロンビア沿岸に近づくのとエクアドルにあるマリーナ等の情報を持っていなかったからです。また、ココ島は無人島で修理に必要な部品が発生しても調達ができないこと、コスタリカ行きはかなり魅力的でしたがパナマシティーよりも北部に位置しコスタリカへ行けば多分今年中の南太平洋クルーズは諦める必要がありました。

なんとかやるべきことをやり終えて気が付くと時計は既に夜中の12時を回っていました。夕食もとる暇もなかったのともうその時点では食欲もなく、また、着ている服も雨と海水と汗でぐっしょり濡れていましたが着替える気力もわいてきませんでした。嵐や大きなトラブルが発生した夜は疲れていてもなかなか眠ることができません。夜の暗闇の中ではどうしても弱気になったり不安がつのりました。このままガラパゴスに向かって本当によかったのか、メインセールは嵐の雨と海水でかなり湿気を含んでいたままセール補修テープを貼り付けたがこの航海に耐えることができるだろうか。ステーやシュラウドがノックダウンによるダメージを受けているのではないか。そして、その時になってよく考えてみると私がやったステイスル油圧ラインのジブセール油圧ラインへの入れ替えは、結局、苦労しながら手動で巻き取り、また、当分はジブセールを使えないことからまったく無駄な作業であったことに気付き自分ながら呆れてしまいました。

こんなことで夜中中眠ることができなくてコクピットで過ごすことになりました。 うっすらと周りが明らみ始め夜明けが近づき水平線の輝いてくるのを見ていると少し心が和んで暗闇の中で抱いていた不安な気持ちがだんだん薄らいでいくようでした。そして、日の出と共に新たな気持ちで活動を開始し、服を着替え、熱いコーヒーを飲み、朝食にはみそ汁と熱いご飯に生卵かけで更に元気を付け「さあ、ガラパゴスへ行くぞ!」と自分に言い聞かせました、先ずは、ジブセールを当分使用しないので昨日苦労しながら入れ替えた油圧ラインを再び元に戻し、風上航行を少しでも稼ぐためナンバー2ジブセールのステイスルセールを大きめの予備セールと交換しました。思った通りその日以降は風速が落ち風向も西から南南西の目的地であるガラパゴス方面からの向かい風になりました。また、徐々に赤道反流とフンボルト海流の影響からか向かえ潮流となりますます前進距離が稼げなくなりました。

その地点から目的地のガラパゴスまで直線距離は約600マイルですが実際のクルーズ距離はタックを繰り返して風上に上っていくコースしかとれなかったため倍の1200マイル越えることになりました。また、ガラパゴスの島々が見えだしたところでフンボルト海流の西流がますます強くなり(2〜3kt)風が弱いためセーリングでは前進どころか海流に流されて目的地から遠ざかっていく状況でした。このままこの海流に乗ってマルケサス目指す方が楽に思いましたが、やはり目前にしたガラパゴスへの思いから、ついに、セーリングを諦め目的地へ機走で向かうことになりました。そこからアカデミー湾までは約40マイルでしたが強い潮流に逆らって進んだのと、途中、エンジン回転が不安定になり2回燃料フィルターを交換したため機走で約17時間もかかってしまいました。この機走約17時間は2006年7月に東京を出港以来、最長の連続エンジン使用時間になりました。ちなみに第二位はパナマ運河通過時の約7時間で、また、5年間のエンジン総使用時間は1172時間でした。

ディーゼル燃料の質が低下していて汚染物が発生しているため燃料フィルターが詰まりやすくなっていることは前々から気が付いていました。しかし、まだ大丈夫という思いがありそのままにしていました。ディーゼル燃料(軽油)は有機燃料で古くなったり粗悪な燃料が混ざると燃料内にバクテリアが発生しやすくなり、このバクテリアが多量に発生すると燃料が泥水のようになって燃料フィルターや燃料噴射ノズルを詰まらせエンジンの出力を低下させたりエンジンを突然ストップさせてしまう等の不具合が発生しました。ぽれーるのエンジンの燃料フィルターはマニュアルでは300時間毎に交換することになっていますが既に新品の燃料フィルターと交換しても10時間も保たない状況になっていました。後刻、ぽれーるは燃料タンクの清掃をタヒチで行いましたが燃料タンク内は濁った燃料と底面に2cm程の泥ではなく土が堆積していました。

このバクテリアの発生を防ぐには良質な燃料を給油しタンク内のその燃料を半年以内に使い切るようにするか、バクテリアの発生を抑える液体(BIOCIDE)を燃料に入れて少しでもバクテリアの発生を遅らせる方法、それから定期的(1〜2年)に燃料タンク内を清掃することでした。ぽれーるはブラジルをクルーズしているときから燃料フィルター交換間隔が少しずつ短くなっていたのでこのBIOCIDE液を定期的にタンクに入れていましたが、その効果はあまりなかったようでした。パナマ運河やパナマシティー付近の航行では機走でもそれほど気になりませんでしたが、それは、水面が安定していて燃料タンク内の汚染物が底面に堆積した状態で、燃料タンク内の燃料吸い出し口がタンクの底面ではなく底面から2cmほど上にあり燃料の上積みをエンジンに送っていたからと思いました。ところが、外洋では波やうねりで常に艇体が動揺し燃料タンク内の燃料も汚濁物が攪拌され汚れた燃料がエンジンに供給される状況になっていました。

( ガラパゴス )

ガラパゴスのエントリーポート(入国手続き可能な港)はサンクリスバル島のウレック湾(南緯0度54分、西経89度37分)とサンタクルズ島アカデミー湾(南緯0度45分、西経90度19分)の二カ所でしたが、ぽれーるは観光中心地のアカデミー湾に決めていました。

結局、パナマシティーからアカデミー湾には21日間もかかった8月27日の午後に到着しました。湾内にはツアークルーザーが40隻ほど停泊していて、そのほとんどのクルーザーは湾の入口から入ってくるうねりの影響の少ないポイントで船の前後をブイかアンカーで繋ぎ止めそのロープが海面下を走っているため陸岸に近い便利なアンカリング地はほとんど空いていない状況でした。また、観光客が少ないシーズンなのかほとんどのクルーザーは泊まったままのようでした。 後で分かったことですが外来ヨットもこの時点ではぽれーる1隻のみで三日後にエクアドル本土からフランスのカタマラン・ヨットが来てやっと2隻になりました。仕方なく少し離れたうねりの入っている海面にアンカーを下ろしその日は上陸せずにゆっくり休むことにしました。

翌日早朝、エクアドル海軍のゴムボートが停泊しているぽれーるに来てその日が日曜日にもかかわらず入国手続きのためポートキャプテン事務所に出頭するようにとの勧告を受けました。早々、デンギィーで上陸し海岸にあるポートキャプテン事務所に行き当直の若い係官に入国手続きを申請しましたが、その係官はまったく取り合ってくれません。私は英語がその係官に通じないと思い事前に作っておいた入国手続きの申請の旨をスペイン語で書いた紙を見せました。係官はスペイン語で何事か尋ねましたが私がスペイン語が理解できないとジェスチャーで示すとその係官はやはりダメというしぐさをしました。パナマシティーに滞在している時、ヨット仲間からガラパゴスではスペイン語が話せないと入国手続き等を代行するエイジェントを雇わなければならないと聞いていたのですが、いくら私がスペイン語で書いた紙を示しながら頼んでも聞き入れてもらえませんでした。そして、最後にその係官から英語で「エイジェントを呼べ」と言われてしまいました。

仕方なく事前にインターネットで調べていたエイジェントに電話して状況を話しポートキャプテン事務所に来てもらうことになりました。少し待つとマウンテン・バイクに乗ったエイジェント・オペ・マネージャーで細身で背の高い若者(トーマス)が現れました。そして、彼は流ちょうなスペイン語で係官に2,3語話し、私に対しては船に戻って待っていてくれということでした。私がディンギーでぽれーるに戻って10分ぐらい経ってからトーマスとカスタムとクオランティーの係官を乗せた水上タクシーが着き、審査が始まりました。しかし、審査といっても私が渡された書類に書き込み、その間、トーマスと係官たちは雑談をしているようで書き終えた私に対しトーマスをかえし「こんな小さな舟で一人で旅をしていて怖くないのか?」とか「日本はツナミでたいへんだったようだがおまえの家族は大丈夫なのか?」等、審査には直接関係ない質問に終始し、港使用料(NAVY Fees $85, Lights & Bouys $39 )$124USドルはエイジェントに払ってくれということで審査は終わってしまいました。また、イミグレーション手続きはその日が日曜日であるため翌日私自身が町はずれのオフィスに出向き自分で手続きをしました。

イミグレーション・オフィスとはいっても日本でいう駐在所でその業務をやっているのももちろんお巡りさんでした。担当の若いお巡りさんと私は入国審査中?一言の言葉を交わすことなく入国料($15)を払って無事終了しました。帰る途中、エイジェント事務所(小さなレストランの2階の小さな事務所)に立ち寄り、事務所のパソコンでインターネットをしていたトーマスをつかまえ、エイジェント費をとるわりに仕事をしていないのではないかと詰め寄ると、これがエクアドル流のやり方でエイジェントが後ろ盾になっているからスムーズにことが運んでいると言い訳をしていました。ただ、エイジェント・フィーについてはぽれーる(52ft)を40ftとして1日当たり$14ドルにしてくれました。トーマス(Tuomo)は東ドイツの出身でバックパッカーで世界を回っていて、たまたまガラパゴスでスペイン語が堪能でほとんどのヨーロッパーの国の言葉が理解できるということでこのエイジェントに雇われていたようでした。

私が上陸した時はガラパゴスにはこのトーマス以外に話し相手がいなかったので事務所の下のレストランでコーヒーを飲みながらいろいろ話しをしました。彼は今までバックパッカーとして北米や南米を旅したことやこの次はオーストラリアとかアジアへ行きたいと話していました。外来ヨットが来ない時期、トーマスは事務所でインターネットをしているか、マウンテン・バイクでアヨラ市内を回り観光客の若い女性を誘うぐらいしかやることがないとも言っていました。アヨラAyoraはガラパゴス観光ツアーの出発地で海岸近くや通りに面したところにはホテルや民宿、レストラン、ダイビングショップ、ツアー会社、お土産店等が並んでおり奥まったところには一般のエクアドルの人々も暮らしていました。ガラパゴスの人口は1万人を超えていますがこのサンタクルズ島のアヨラと州都であるサンクリストバル島のバケリソ・モレノにほとんどの人々が暮らしているようでした。また、エクアドルの通貨は2000年までスクレ(1usドル=25,000 スクレ)だったようですが現在は米国ドルのみになっていました。

ガラパゴスには10日間停泊しましたが、そのほとんどの時間をセールの修理等に費やしたため島内やガラパゴスを代表するような周辺の観光スポットに行く暇もありませんでした。入出国手続きや部品、作動油、食料等の買い出しに上陸したついでにアヨラAyoraの街中や海岸、郊外にあるチャールズ・ダーウィン研究所を散策した程度でした。ガラパゴスは8月から11月まで雨期にあたり観光やヨットクルーズのオフシーズンで雨や霧の日が多く、サンタクルズ島の中央に位置する標高の高くないなだらか山もほとんどの日が低い雲や霧に覆われていました。 ヨットクルージングでパナマシティーからガラパゴスに来た場合、ガラパゴスの次はマルケサス諸島に向かうのが普通です。途中の天候も安定していて風向がセーリングに適しているのと海流も後押ししてくれます。また、マルケサス諸島はたいへん魅力的なところでクルージングする者の憧れの地でもありました。ぽれーるは既に2007年にメキシコからマルケサス諸島を訪れていたため、今回は更に南の島々を回ることにしました。

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ガラパゴス・サボテン

ガラパゴス・サボテン
ガラパゴス・セール修理

ガラパゴス・セール修理
ガラパゴス・ダーウィン研究所

ガラパゴス・ダーウィン研究所

( ガラパゴス 〜 ピトケアン )

9月6日午前、ガラパゴスに若干の未練を残しながらも、メインセールの縫い合わせ修理が終わったところで次の目的地であるピトケアン島(南緯25度4分、西経130度6分)に向かうことにしました。ピトケアン島はガラパゴスから南西に約2700マイルにある英国統治領の小さな島(長さ2マイル、幅1マイル)で1767年に英国軍艦スワローにより発見され最初に見つけた士官候補生の名前から「Pitcairn」と名付けられました。1790年にバウンティ号の反乱者が上陸し奪ったバウンティ号を沈めた島としても知られていました。現在のピトケアン島の人口は50人程度で飛行場も港もなく島の海岸線が直接大洋に接しているため天候によってはうねりが高すぎて島に近づくこともできません。

ぽれーるはガラパゴス出港後、二日間、実は目的地であるピトケアン島ではなくイースター島に針路をとっていました。この世界クルージングを始める前からイースター島にヨットで行ってみたいという希望を捨てきれずにいました。しかし、やはり8日になって天気予報の通りだんだん波も風もイースター島方向からに変わり次第に波は高く、風は強くなってきました。これ以上のイースター島への向首はぽれーるに与える負荷が大きくなると考え、8日の午後にはイースター島行きを諦め本来の目的地であるピトケアン島に針路を戻しました。ガラパゴス出港後11日間はジブセールが使えなかったにもかかわらず南西の安定した15kt前後の風が吹き平均速度6ktを越える順調なクルーズが続きました。

ぽれーるが進む青い海面には船体の波切り音に驚いたのか、黒い船底をクジラとでも勘違いしたのか何百匹というトビウオが右や左と飛び交い、そのきらきらしたトビウオの羽根から昼間は太陽、夜は月の光を反射させていました。また、風音の中にかすかにトビウオの羽音が聞こえるような幻想的な世界が広がっていました。その光景はいつまで見ていても飽きることはありませんでした。こんな気持ちでクルーズを味わったのは5年を越えるクルーズをしていても初めてのような気がしました。もちろん、今までのクルージングでも感動した日の出や夕焼け、また、星空もありましたがこんなに長い時間その感動が続くことはありませんでした。ガラパゴス出港後、一隻のヨットも船にも会わず、一機の飛行機も見かけることもなく、この広い南太平洋の一画だけはぽれーるのためにだけ存在しているような気がしていました。そして、この海はどこまでも続き永遠に島や陸地を見ることはできないように思えました。ケビンコスナーが出演していた映画「ウォーターワールド」そのもののような海の世界でした。

もともとセーリング経験も少なく時々船酔いする私にとってはクルージングは目的地に行くための交通手段としての思いが大きかったように思います。常に揺れる船の中で睡眠や食事が不規則になりテンションが下がりがちな中で嵐にあったりするととてもクルージング自体を楽しんだり味わう余裕はありませんでした。実際、東京出港後三陸沖で時化に遭って浸水したり、カナダ沖でゲールに見舞われてフォアステーが切れそうになったり、2007年の南太平洋では錨泊中にストームが来てアンカーチェーンが切れたり、モルディブでは停泊中に強風のため流されてきた大型クルーズ船に衝突されたり、モザンビーク海峡では夜中にサンダーストームの中、大波をくらってノックダウンしたり、今回もホワイト・スコールで痛めつけられていました。また、そういった嵐による辛い思いだけではなく「クルージングを続けているヨットは毎日小さなトラブルが3件以上発生し、月に一回はかなり大きなトラブルが発生し、三ヶ月に一回は深刻なトラブルに見舞われる。」と言われているようにぽれーるも私の普段の整備がよくないのかいつもトラブルに悩まされ、その対応や修理にかなりの時間と労力が必要でした。

しかし、今回のクルーズでは苦しい中にも何かクルージング自体を味わうという心が少しですが分かりかけたような気がしました。同じように見える海も空も一瞬たりとて同じ状態は起こりえず、常に変化して二度と同じ状況には出会えないという思いが強くなりました。そういった海や空や雲を見てその中にあるかすかな音、わずかな変化、刻一刻と姿を変えていく自然を感じる心が今まで私の中になかっただけであることに気付かされました。 13日目にはピトケアン島まで約1000マイルとなりましたが、この付近(南緯15度、西経115度)から高気圧の中心に近づいたためか日に日に平均速度が4.5kt、4kt、3.5ktと落ち、19日目には残航600マイルとなりましたが、今度は風は吹いたり止まったり、また、風向も北から東、南へと一日の中でもどんどん変わっていました。それでも何とか9月29日になった23日目には残航250マイルを切りもう少しというところまで来ましたが、今度は完全に無風状態になってしまいました。機走も考えましたが、汚染燃料の問題もありエンジンの使用をできるだけさけたかったため風が吹いてくるのを待つしかありませんでした。

二日間、無風の中で漂流状態が続き三日目の朝も風がまったくありませんでした。ガラパゴスを出港して26日目、少しいらついていた私は「どうしてこんなに風が無いんだ!、嵐でも何でもいいから風を吹かせてみろ!」と空に向かって大声で叫んでしまいました。ヨット仲間のアンソニーが私によく言っていた英国船乗りの掟の中に「金曜日に出港すれば災いが起こる。」「海上で風が無くて漂っていても決して嵐を呼ぶような言葉を発してはいけない。」ということを思い出しましたがまさかそんなことにはならないだろうと思っていました。その日の午後になって北東の風が吹き始め直ぐに風速は25ktほどになりました。クルージングにはこの風は少し強いですが嵐ではありません。ブロードリーチでセーリングするには特に問題はありませんでした。ぽれーるはその風に押されるように7kt前後でピトケアン島に向かうことができました。

ピトケアン島 (写真をクリックすると拡大します)
ピトケアン島

( ピトケアン )

翌日10月4日の11時前には約40マイル先にある小さなピトケアン島をランドフォールしました。30マイルとなった地点でピトケアン島のバウンティ・ベイ・ハーバーコントロールを無線で呼び出し夕刻までに到着する旨を伝えました。無線に出てくれたのはジェニーという女性で「ピトケアン島はあなたの来島を歓迎します。現在、バウンティ・ベイは少しチョッピーだけどアンカリングできると思います。5マイルまで近づいたら再びコールしてください。」と告げてきました。午後4時前には5マイル地点に到着し再び無線で呼びかけると先程のジェニーが出て、ピトケアン島ラジオ・ステーションのサイモンとコンタクトをとって欲しいということでした。

早速、サイモンにコールすると「現在、バウンティ・ベイは少しうねりが高くなっているがアンカリングするかしないかは、ぽれーるのキャプテンの判断に任せる。もし、ぽれーるがアンカリングすれば直ぐにボートで迎えに行く。」ということでした。ぽれーるは後ろからの風と波の中、セールをリーフしてゆっくりと島の北東部に位置するバウンティ・ベイに近づいて行きました。しかし、近づけば近づくほどうねりが高くなりとてもアンカリングなどはできないと思いました。うねりは平均3mぐらいで時々4〜5mのものをともなっていました。海岸から約0.5マイルまで近づきましたがうねりでぽれーるのコントロールが難しくなったためアンカリングは無理と判断しその旨を無線で伝え、私の方から「風のブラケットとなっている島の南側のアンカリング地の状況」を知らせてくれるように要求しました。

サイモンからは「既に暗くなり始めているため今日は安全な距離を保って洋上で待機して欲しい、明日の朝6時頃に連絡をとる。」との回答がありました。ぽれーるは了解して再び5マイルほど北上しヒーブ・ツーで夜を明かすことになりました。その夜の8時頃にもサイモンから無線による交信があり、ピトケアン島の歴史や今住んでいる人についていろいろ話をしてくれました。そして、サイモン自身もピトケアン島で育ったが一時都会にあこがれてオーストラリアへ行ったものの、結局、大きな街にはとけ込めずピトケアン島に戻ってきて、今は自分の住むところはここしかないと思っているということも話してくれました。私の方も日本を出港してから今まで辿ってきたクルージングの旅について話をしました。

5年を過ぎるクルージングをしていますが入国を前にして船の運航に直接関わらない個人的な話を無線で交わしたのはこれが初めてでした。 その夜は大きな雲が流れていく中、ハーフムーンの月明かりに浮かび上がった小さなピトケアン島のシルエットを眺め、わずかな灯火が見え、その灯火の下にサイモンやジェニーが暮らしていると思うとなんとなく心が和み温かくなる思いがしました。明日はきっと風が収まり島に上陸してサイモンやジェニーまた島の人々とも会えるかも知れない思いました。しかし、それにしても、この風とうねりは、先日、私が無風の海上で「嵐でも何でもいいから風を吹かせてみろ!」と言った英国船乗りの掟破りのせいなのか、それが英国統治領であるピトケアン島への上陸に災いしていなければいいと思っていました。

翌朝6時前に、サイモンから無線が入り既に早朝、彼自身が島を一回りして波とうねりの状況を調べてくれていました。それによるとやはり状況は昨日と同じで風下で風のブラケットとなっている島の南側のアンカリング地もうねりが入っているということでした。ただ、やはりぽれーる自身でうねりの状況を確認してアンカリングするかどうか決めて欲しいということでした。早速、ぽれーるは島の南のアンカリング地を中心にピトケアン島を一周することにしました。島に近づくと切り立った断崖に大きな波しぶきが上がっていて、普段からもピトケアン島に立ち寄ったヨットは自分のディンギーでは無理で島の人が操船するスピードボートに乗り移りうねりの合間のわずかな時間に上陸するということがよく分かりました。島の南側は風は強くはありませんがやはり回り込んだうねりが入っておりその高さも3mは越えていました。

陸からサイモンが無線でいろいろアドバイスをくれ、島の南側にある二カ所のアンカリング地を確認しましたが現状ではアンカリングすることは無理だと判断しました。バウンティ・ベイ沖に戻りサイモンに一週間分の天気予報を調べてもらうことにしました。もし、この風が2、3日で収まりうねりが2m程度になるならば、それまで洋上でヒーブ・ツーしながらでも待機しようと考えたからでした。サイモンから直ぐに返答が来ました「この風は強くはならないが2週間は同じような天候が続く。」また「二週間前からおとといまでピトケアン島は風も穏やかでうねりも1m以下の年に数回しかない絶好の上陸日よりだった。もし、ぽれーるがその時にピトケアン島を訪れてくれていたらきっと楽しい時間を過ごせたと思う。」とのことでした。サイモンが言った絶好の期間、ぽれーるは風が落ちた大洋で四苦八苦していた頃でした。もし、パナマシティーをもう一週間早く出港していたら、そして、あのホワイト・スコールに遭わなかったらと考えました。

サイモンからの気象予報を聞いて私はピトケアン島への上陸は無理で諦めざるを得ないと思いました。そして、次の目的地であるガンビエールGambierへ行くことを決めました。しかし、即座にはそのことをサイモンに伝えることができなくて、最終的な決断は1時間後にこちらから連絡すると言って一旦交信を終了しました。そして1時間後の9時にラジオ・ステーションをコールし「 I’m very very sorry, I gave up to land in Pitcairn Island this time. And I go to Mangareva Gambier. Thank you very much for every thing, Simon. Someday, if I have next chance, I would like to visit Pitcairn, and I would like to talk with you. SAYONARA Pitcairn. SAYONARA Simon 」 をサイモンに伝え、ピトケアン島をあとにしました。ぽれーるは5年間クルーズをしていてその目的地に着いたにもかかわらず上陸できなかったのはピトケアン島が初めてでした。

( ピトケアン 〜 ガンビエール)

ピトケアン島からガンビエール諸島のマンガレバ島(南緯23度7分、西経134度58分)までは約300マイル、針路は290度、この風で行けばほぼアビームクルーズで二日間で到着できると思いました。そして、降り始めた雨の中、徐々に遠ざかり薄れていくピトケアン島に感傷的な想いがしばらく続いていました。突然、何かが壊れる「バーン!」という大きな音がしました。直ぐに何が壊れたかが分かりました。右舷後方シュラウドのチェーンプレートに取り付いているステンレス製の接続金具(厚さ7mm)が完全に破断して甲板上にころがっていました。そして、シュラウドワイヤーはぶらぶらの状態で振り子のように左右に揺れてブームを叩いていました。

直ぐにメインセールをリーフし、右舷ランニングバックをウィンチを使って張力を増し、左舷ランニングバックもリーフしたメインセール上を通し右舷側に持ってきてチェーンプレートにかけました。やっと気分的に落ち着いたところで再び「バチン!」という大きな音がして目の前で右舷前方シュラウドの下端コネクター部でワイヤーの外周素線が8本(直径12mm芯線7本、外周12本の計19本縒り)が切れてワイヤーの縒りがもどり切れたワイヤーがスカートのように広がっていました。ぽれーるの右舷シュラウドは4本ですがその中でも太い12mm径の2本に問題が発生してしまい、もし残りの2本のシュラウドが切れればデス・マスト(マストが折れたり、倒れる。)するところでした。もう一刻の猶予もありませんでした。その時は右舷から風を受けていたので直ぐにぽれーるの舵を切って反転させ針路を南東に向け右舷側シュラウドにかかる負荷を軽減しました。そして、このトラブルにどう対処するかを暫く考えましたなかなかいい方法を考えつきませんでした。

仕方なく倉庫代わりにしている前部キャビンに行き何かないかと物色していたところ半分壊れている古い接続金具(直径32mmピンにかかる双肩の片方が亀裂で破断しているためシュラウドにかかる力を生き残っている半分の肩部分でしか支えることができない金具)とワイヤーの素線が1本切れて2008年にニュージランドで新品と交換し取り外して保管していた左舷前方シュラウドが目にとまりました。完璧ではありませんがこれで少なくとも修理ができるところに着くまでは保ちこらえてもらうしかありませんでした。先ずは片肩が亀裂で壊れている古い接続金具を後方シュラウドの下端に取り付けチェーンプレートに接続しました。次に右舷前方シュラウドと交換するため右舷ランニングバックをゆるめマストに上って右舷前方シュラウドの上端を外し、交換するシュラウドの上端を取り付け、甲板に降りて同じシュラウドの下端を取り外し古いシュラウドを取り付けました。

その後、念のため左右舷のシュラウドを含めたすべてのリギングの張力を確認して調整し、コクピットに戻りガンビエールへ針路を戻そうとしてコクピットのGPSを見ると電源を切った覚えがないのに今度はGPSの電源が落ちていました。何回かGPS「ON」スイッチを押しましたが電源は入りませんでした。テスターで電源ラインをチェックしましたが正常な12ボルトが供給されていることからGPS本体のトラブルのようでした。このコクピットのGPSは「GARMIN GPS MAP492」で対地速度、目的地までの残行程、到着予想時間、AIS情報(30マイル内を航行している大型船の動向)等と自船位置が地図上のポイントとして確認できるのでかなり普段から重宝していました。ぽれーるにはその時点で航法に使えるハンディーGPSが2台とUSB専用GPSが1個ありました。ハンディーGPS2台の内、「GARMIN 60Cx」には地図機能があり画面は小さいですがほぼ故障したコクピットGPSと同じ機能を持っていました。ただ、このハンディーGPSは電源が乾電池で12ボルトのバッテリーと接続するコードを持っていませんでした。

航海している時は速度や残行程、自船位置等を知りたくていつもコクピットGPSだけは電源を「ON」としていました。ハンディーGPSは節電モードでも乾電池の寿命は半日と持ちませんでした。そこで、バッテリーからの12ボルト電源が使えるようにパソコンの余っていたシリアルコードを利用して電源コードを作ることにしました。そして、チェックのため接続を確認しようとして誤って電気ショートさせてしまいました。それ以降そのハンディーGPS「GARMIN 60Cx」は二度と乾電池でも電源が入ることはありませんでした。残りのハンディーGPSは「Geko201」というポケットに入るほどの小さなもので地図機能はありませんでした。このハンディーGPSでも緯度経度の数値データは表示されるので大洋を航行している時は特に問題はありません。また、航路標識灯のしっかりした大きな港や航路帯でそれらの標識を確認できる視界が保たれていればGPSの地図表示がなくても安全な航行はできます。

しかし、航路標識灯の整備されていない暗礁地帯や浅瀬、狭いパス等を通過する時は操船しながら小さな文字の数値データを頭の中で地図上にプロットしていく必要があり、その精度も1秒(約30m)以下の数値にも注意を払うことが要求され、今後の航海が気分的に暗くなりました。パソコンにはC−Map(電子海図データ)がインストールされていますが、その時点でキーボードかUSBポートの不調のためか、USB専用GPSをパソコンと繋いでもGPSからの位置データをパソコン側で受け取ることができずリアルタイムな自船位置が画面の地図上に表示されませんでした。いずれにしても、今回の太平洋クルーズではいろいろトラブルと失策が続きました。

右舷前方シュラウドの素線切れはコロンビア沖のホワイト・スコールによるノックダウンの影響があったかも知れませんが、右舷後方シュラウドの接続金具の破断面は疲労破壊を示す貝殻状の波紋がありその起点となっている箇所の錆具合を見ると半年前ぐらいから亀裂が進展していたようでした。普段の点検や整備をしっかりやっておけば初期段階でこの不具合を発見し今回のような破断に至らなかったかも知れません。また、もう少し慎重に作業をすれば自分の不注意でハンディーGPSを壊すこともなかったはずでした。毎回、ロングクルーズではトラブルが発生する毎、間違った対処や適切な対応ができなかった毎に「こうしておけばよかった。」とか「ああしておけばよかった。」とか「こんなバカなことをするのではなかった。」と反省と後悔が続いていましたが未だにその状況は変わっていませんでした。本当に毎回「後悔しながら航海していました。」

( ガンビエール )

右舷シュラウドへかかる力を軽減するためセールをリーフして速度を落として走ったため、ガンビエールをランドフォールしたのは3日かかった10月8日午後になりました。そして、ガンビエール環礁の南西側パスまで3マイルとなった時、ちょうどパスを抜けて西に向かうヨットを見つけました。ガラパゴスを出港して32日目に見る初めてのヨットでした。クルージング時期も終わりに近く、また、主要なクルージング・コースから離れた孤独な航海を続けてきたぽれーるにとってはホットするような想いがありました。早速、無線で呼びかけコンタクトを取ることができました。そのヨットはフランス国籍の船名を「フェル・デ・セル Fleur de Sel(潮の花)」といい、2週間滞在したガンビエールを出港し570マイル南西にあるラパ島(南緯27度37分、西経144度20分)へ向かうところでした。 そのヨットに搭乗していたのはニコラスNicolasとハイデーHeidiというご夫婦でした。ニコラスの話しによるとマンガレバ島リキテアRikiteaのアンカリング地には、まだ、2隻フランスのヨットが停泊しているとのことでした。また、アンカリング地の入口を示す標識が3つ、海図上には記載されているが実際にはなくなっているので注意してくれということも教えてくれました。

ガンビエール諸島はツアモツ環礁地帯(約80の環礁が長さ約1000マイル、幅180マイルの北西から南東に広がる帯状の中に点在する。)の南東のほぼ端に位置し、タヒチ島から南南東に860マイル離れていますがフレンチ・ポリネシアに属する島です。ガンビエール諸島は南北に19マイル、東西に16マイルの菱形をしたリーフに囲まれた中に5つの島があり、総面積約16km平米の小さな諸島です。人口は約1000人で中央の一番大きなマンガレバ島にほとんどの人が暮らしており、黒真珠の養殖、漁業、農業と若干の観光で生活が営まれているようでした。また、ガンビエールの北東側のリーフには2000mの飛行場がありタヒチ島から週に1回飛行機が来るようでした。1797年にイギリスの伝道船「Duff」に発見され船長の上司の提督の名前をとって「Gambier」と名付けられました。その後直ぐフランスがイギリスに取って代わって教会や学校を建設しフランス領となりました。

ガンビエールから西に250マイルの距離にフランスの水爆実験島であったムルロア環礁があります。 ぽれーるは向かえ風で風速が10kt以下になっていたため南西パスを北東方向へ機走で通り抜けることにしました。しかし、途中まで来たときにエンジンの回転が不安定になりパスの中央でエンジンが止まってしまいました。この南西パスは標識はありませんがかなり幅があり周辺も水深が5m以上あるため風と潮にぽれーるは流され始めましたが、キャビンに下り床下にある燃料フィルターを交換することにしました。ぽれーるのエンジンには二カ所に燃料フィルターが配置されていて、燃料タンクから燃料はパイプを通って油水分離器に内蔵されている一番目のフィルターで濾過されさらにパイプを通ってエンジン本体の側面にある燃料フィードポンプのフィルターに送られます。油水分離器のふたを外し内蔵されているフィルターを見ると完全に泥で目詰まりを起こしていました。油水分離器内を燃料で洗浄し保管していたフィルターと交換しました。

交換したフィルターは新品ではなく目詰まりしたフィルターの外側を軽油とガソリンで洗浄し軽油をフィルターエレメント内に満たして出口側の孔から口を使って空気を送り込み汚れた軽油が出てこなくなるまでこの作業を繰り返し保管していた中古品でした。フィルター交換は10分ぐらいで終わりフィードポンプのプライミング・レバーで燃料系統内の空気をブリードしスターターキーを回すとエンジンは始動しました。ただし、エンジンの回転がどうも少し不安定でした。多分、燃料フィードポンプのフィルターも汚れていると思いましたがこれと交換するフィルターの手持ちがありませんでした。このフィルターは再使用のための洗浄が難しいタイプのもので、ジャマイカに停泊中、車の修理部品ショップに取り外したフィルターを持ち込んで互換品ということで新品3個を手に入れたと思っていたのですがこれが異品でした。内部のネジピッチが異なっていて一度はネジタップを使って適合するねじ山をたてようとしたのですがネジ部がアルミ製の薄い板であったためネジ部が壊れてしまいました。

何とか機走でパスを抜けマンガレバ島の南側まで来ましたが夕方の5時を過ぎ日没が近づいていました。マンガレバ島の東側にあるリキテアのアンカリング地まではそこからまだ1時間ぐらいかかりました。航路帯から離れ少し海岸に近づいたところでアンカーを下ろし停泊することにしました。停泊作業が終わって少し休憩してから夕食を作り静かでほとんどゆれないぽれーるの後方甲板に安楽椅子を持ち出して食事をとりました。空には星が輝きほぼ満月に近い月が東の空にあってガンビエールの島々を照らしていました。そして、ぽれーるの停泊している北側にはマンガレバ島の最高峰のダフ山Duff(440m)が間近に偉容を誇るようにそびえ立っていました。この美しいはずの風景へもなかなか目が向かず、「これからどうしよう、どうしたらいいのか。」という思いで頭の中が埋め尽くされていました。パナマシティーで考えていたクルーズ計画ではタヒチに寄らずに南の島々を経てニュージーランドへ行くつもりでいました。しかし、この時のぽれーるの現状ではとてもその計画では行けそうにありませんでした。 こんな夜はお酒でも飲んで心を少し麻痺させて眠ってしまいたいところでしたがぽれーるには一滴のアルコールも残っていませんでした。

翌日、10時半にリキテアのアンカリング地に移動するためアンカーを揚げようとしてウインドラスのスイッチを入れましたがウインドラスが動いてくれません。スイッチを切り替えてアンカーを下ろす方にも入れましたがまったく動きませんでした。ウインドラスのトラブルは2008年からたびたび起こっていて少なくとも10回以上は腕の力とウィンチを使ってアンカーを揚げた実績がありました。ウインドラス不作動の原因究明は後回しにして今回も腕の力とウィンチでアンカーを揚げることにしました。幸いアンカーを入れた場所の水深が6mぐらいで助かりました。この水深が10mを越えるとさすがに私の腕の力では10mmショートリンクのチェーンは重く、最初からウィンチの力を借りなくてはなりませんでした。 エンジンのパワーで少しぽれーるを前進させてチェーンの張りをゆるめ直ぐ船首に行って腕の力でチェーンを引っ張り上げてチェーンにフックをかけ、再びコクピットに戻ってエンジンのパワーで前進しチェーンの張りをゆるめてチェーンを引き上げるという作業を10回ぐらい繰り返してアンカーが海底の砂等から抜ける直前まで腕の力でチェーンを引き上げました。最後は私の腕の力では無理でウィンチで引き上げました。

ぽれーるはパナマシティーに停泊している時から常時タンデム・アンカー方式(一本のチェーンに2個のアンカーを取り付けて投錨する方式)でアンカリングをしていました。今回も先頭に30kgのブルースアンカー、約5mおいて25kgのCQRアンカーを取り付けていました。2つのアンカーを船首につり下げたままリキテアのアンカリング地に向かいました。途中、リキテア・ハーバーに無線でコンタクトを試みましたがまったく応答はありませんでした。また、ニコラスの話してくれたとおり途中の航路標識がありませんでしたが海水が透き通っていて浅瀬がよく見えていたので狭くて曲がりくねった水路でしたが何とか通過することができました。アンカリング地には1時間ほどで到着し、慎重にポイントを選んでアンカーを自然落下させチェーンを手で少し繰り出しエンジンでぽれーるを後進させながらチェーンの繰り出し長さを設定しました。フランスのヨットが2隻に地元のヨット3隻が既に停泊していました。

よく見るとフランスのヨットの1隻はパナマシティーで見かけた船でパナマシティーではお互い少し離れていたので話しはできませんでした。ぽれーるが停泊作業を終了するとそのフランスのヨットからマリーがディンギーでやって来て挨拶してくれ、そして、その日の夕食に招待してくれました。もう一隻のフランスのヨットはタヒチから来てパナマ運河を経てヨーロッパーへ帰る途中でアランと彼のガールフレンドが乗っていました。地元のヨットには誰も乗っていないようでした。その夜はマリーと旦那さんのフィリップの3人で食事とフィリップ特性のラム酒で盛り上がり夜遅くまでお互いの苦労話をしました。マリー達はガラパゴスから35日かかってこのマンガレバに着いたということで、途中、彼らのヨットもいろいろとトラブルに見舞われたそうですが、一番怖かったのは夜中にエンジン音がするので甲板に上がると直ぐ側を大きなコンテナ船が通過したそうでした。その夜は久し振りに飲んだラム酒の酔いがまわってぽれーるに帰ってぐっすりと寝ることができました。

リキテア・ハーバーには500トンクラスの船が接岸できる桟橋があり、月に1度、タヒチ島から小型のフェリーが来るとのことでした。マリーからリキテアはエントリー・ポートではないがジェンダメリエGendarmerieで入国者の管理と入国書類の代行を行っていると聞きました。ジェンダメリエは警察のような役割と港や入国者の管理を行うフランス本国直轄の組織です。パペーテ等の大きな街にはジェンダメリエと市の職員としてのポリスの2つの組織が存在しますが、地方の小さな島ではジェンダメリエしかありません。ジェンダメリエの係官はほとんど警察官と同じような服装をしていました。翌日の9日が日曜日だったので10日の10時過ぎに入国手続きのためディンギーで上陸しリキテア村のほぼ中央にあるジェンダメリエのオフィスへ行きました。係官は4人の小さな事務所でほとんど英語は通じませんでしたが私がヨットで来たことを理解してくれ入国書類を持ってきてくれました。手続きは簡単で書類に書き込みパスポートに入国の印鑑をもらい、書類のコピーを郵便局へ持って行って切手代65ポリネシア・フラン(PF)を払ってパペーテのジェンダメリエの本部に送ると完了でした。

ポリネシア・フランはその郵便局で米国ドルと事前に交換(1米国ドル=82ポリネシア・フラン)しました。リキテア村の道路は海岸に沿ったほぼ直線の一本道で南側の突き当たったところには美しい聖ミッシェルの大聖堂Cathedralがあり外装と内装品の修復工事が行われていました。通りに沿って大きな通信用パラボラアンテナのある郵便局、ジェンダメリエ、集会所、マガザン(商店)、民家、村の北の外れにディーゼル発電所がありました。フレンチ・ポリネシアの小さな島のマガザンは店に入るとカウンターがあり商品はほとんどカウンターの後ろの陳列棚とか店の奥に置かれていました。だから、買い手は口頭で商品名を言うか指さしして店の人にその商品を取ってもらう必要がありました。また、マンガレバ島には3軒のマガザンがありましたがどのお店にも果物とか野菜はまったく売り物として置かれていませんでした。

英語が少し分かる若い女性店員に「なぜ、果物とか野菜がないの?」と質問したところ「タマネギや茄子、芋類の野菜はそれぞれの家の庭で採れるし、バナナやマンゴ、グレートフルーツの果物も庭か近くの森に行けば採れるので買う必要がない。」と言われ、私が「旅行者が野菜や果物が欲しいときはどうすればいいの?」と訊くと「旅行者は野菜や果物を買う必要はなわ。泊まっている宿屋の人が用意しているもの。」さらに「私のようなヨットで来た者は?」と尋ねると彼女は少し考えてから「誰か島の人と友達になりなさい。それから、一週間に一度集会場の広場でマーケットが開かれるので、その時それぞれの家庭で余った野菜や果物が売られているかも知れない。」と言ってくれました。

リキテアのマガザンの商品価格はマリーが話してくれたとおり物価の高いと言われているタヒチよりもさらに3割り高い値段が付いていました。私は1リットル箱の赤ワインとヒナノビール330mlアルミ缶半ダースを買って2600ポリネシア・フラン(2200円)を支払いました。ゆっくり歩いても10分足らずで通り過ぎてしまう村でしたが、帰る途中、民家の庭先から大きな声が聞こえてきたのでそちらを見ると、ちょうど大きな声で話をしていた二人の内の赤ら顔の男と垣根越しに目が合ってしまいました。彼は手招きで私に入って来いというしぐさをしました。見ると彼らが座っている前の机の上にはビールやワインの瓶が何本も立っており「うわ!酔っぱらいに絡まれるかも知れない。」と思いながらも彼の誘いを受けてしまいました。赤ら顔の怒った顔つきの大柄な男がドイツ語で、酔いからか目が据わってしまっている男がフランス語で何かを大声で議論しているようでした。

ドイツ人の名前はシェマック、フランス人のはジャン、シェマックは私より2才年上でジャンは私と同じ年でした。シェマックがしぐさで「ビールとワインのどちらがいいんだ。」と尋ねたので私はワインを指さしました。少しワインを飲んでから私が「ドイツ語は話せません。Ich kann Deutsch nicht sprechen.」「フランス語は分かりません。Je ne comprends pas francais.」と言うと二人から「イングリッシュ?」と訊かれたので「Ja、Oui」うなずいてから英語での会話が始まりました。私の英語もブロークンでかなりいい加減ですが、彼らの話す英語はかなり訛っているのかほとんど聞き分けることができませんでした。シェマックが途中、携帯で誰かに電話をかけフランス語で「アロー、モリヤ ・・・・・・・」と少し話してから私にその携帯を渡し電話相手と話をしろというしぐさをしました。

私が電話に出て「ハロー」と言うと相手の方から「日本の方ですかヨットでマンガレバに来られたそうですね。」と日本語で言われてしまいました。私が「モリヤさんですか。」と尋ねると「モリヤは名前で名字はミヤグチといいます。今、パペーテに住んでいます。・・・」と言われ、それから日本語でかなり長い間いろいろとお話しすることができました。最後にミヤグチさんから「パペーテに来たら是非電話してください。」私も「まだ、日にちは分かりませんがパペーテに着きましたら連絡させていただきます。」と答えていました。先日まで今後のクルーズ計画をどうしようかといろいろ悩んでいましたが、この電話でタヒチ島パペーテ行きがほぼ決まってしまいました。また、ミヤグチさんの話では20年前まではガンビエールにも日本人が何人か真珠の養殖等の指導に来ていたそうですが今は一人もいないということでした。

その後も暇を見つけてはシェマック宅におじゃましビールやワインを頂きながら話していると少しずつその内容を理解できるようになりました。そして、私が帰るときにはかならず野菜とか大きな固まりのビーコンをお土産に持たせてくれました。シェマックは1970年代にフランスの外人部隊の隊員としてガンビエールに来てその当時フランスが行っていたムルロア環礁での水爆実験に関連して民政協力や治安の維持の任務に当たっていたそうでした。そして、若いシェマックはガンビエールで地元の女性と結婚して外人部隊を辞めガンビエールに住み着いたそうです。奥さんは既に亡くなられていましたが公務員の長女を含め8人のお子さんとその家族と共に暮らしていました。フランス人のジャンはヨットで世界を回っていてガンビエールに住みつき現地の奥さんとまだ小さな子供たち6人と隣村に暮らしていました。

リキテアのアンカリング地に停泊している間に、ぽれーるの右舷シュラウドの修理について電話でパペーテのマリーナ・タイナ内にあるマリンショップと話しをしました。しかし、言葉の壁もあってなかなか内容が相手に伝わりませんでした。ガンビエールから飛行便で不具合品を送って同じものを作ってもらうかとも考えましたが接続金具が特殊で代替品がなくまた新規製作についてはマリンショップでは分からないということでした。いずれにしても飛行便の往復の送料も含めるとかなりの金額になるため諦めました。また、ウインドラスについてはやはりモーター内部不具合であることが判明し、モーターを取り外して分解しようとしましたが、モーターの側面カバーを固定している2本のロングスクリュー(直径6mm、長さ160mm)のネジ部が腐食で固着しているようで回ってくれませんでした。シリコンスプレーやミシン油を塗布して1日おいたり、ハンマーで軽く叩きながら回そうとしましたがダメでした。スクリューの頭がモーター側面カバーの座ぐり面に沈んでいるためつかみ代がなく、小型ペン型グラインダーでスクリュー頭の「+」を「−」にして大きなマイナスドライバーにハンドルを付けて回そうとしましたがやはりダメでした。

インパクト・ドライバーがあれば試したいところですが東京を出港する時に持っていたものは1年前に整備中誤って海に落としてなくなっていました。このロングスクリューの頭をドリル等で壊してモーターの側面カバーを外すことはできますが今度組み立てる時にこの特殊な寸法のスクリューを入手するのは難しそうでした。また、ウインドラスのパーツブックにはモーター本体のパーツナンバーだけで中身のブレイクダウンはありませんでした。結局、タヒチに着くまではアンカーは腕の力とウィンチで揚げるしかないようでした。また、燃料タンク内の汚染燃料の問題はキャビン床下の3つある艇底タンクのそれぞれのマンホールを取り外してみると燃料は濁っており手を燃料の中に入れてタンクの底をなぞるとどのタンクも指先に泥の感触がありました。燃料を給油した国によって軽油の色が違うので一概に汚染度の比較はできませんが、最も汚染しているのは中央タンクで次がポートタンク、スターボードタンクの順番のようでした。燃料量は5月25日にパナマのバルボア・ヨットクラブで満タンにしていたのでそれからのエンジン使用時間が約30時間、ジェネレータ使用時間が約60時間で各タンクの燃料は8割り方残っていました。だから、1つの燃料タンクを空にしてタンクを清掃するにも抜いた燃料の持って行き場がありませんでした。 この燃料汚染問題もやはりフィルターを交換しながらタヒチまで行くしかありませんでした。

修理の合間に街を散策したり自転車で島を一周したり山に登ったりしましたが、マンガレバ島には美しい浜辺や海、山があり、ほとんど手付かずの自然が残っていました。道端で出会う島の人達は皆笑顔で挨拶し、私が自転車に乗って走っているとすれ違う車の人は必ず手を挙げて挨拶してくれました。また、ホテルのような施設はないようで私が滞在していた間、観光客らしい人には一人も会うことはありませんでした。ガンビエールの観光パンフレットによるとは2、3月の夏場でも最高気温が30度を上回ることはなく、7、8月の冬の最低気温が20度程度と南太平洋の島としてはたいへん過ごしやすいところでした。島の海岸や山には椰子の木やバナナ、マンゴ、ハイビスカス、ブーゲンビリヤ等の熱帯の植物よりも松のような針葉樹の木を多く見かけました。

ぽれーるはガンビエールに10日間滞在しました。 その間、マリーとフィリップからリーフ内を一緒にクルーズし、スノーケリングやフィッシングを楽しまないかと誘われましたが、ぽれーるのウインドラスのトラブルを考えると行けませんでした。マリー達は11月3日の聖ミッシェル大聖堂の修復完了記念式典に出席してからマルケサス諸島に向かい次の年の4月頃まで泊まる計画でした。また、アランのヨットはガンビエールに3月まで停泊しているということでした。南太平洋の夏場はサイクロンシーズンでもありますが、2000年以降、海水温度が高くなっていないのでサモアより東の区域の南太平洋にはニュージーランドとかオーストラリアにサイクロン避退しないで残っているクルージング艇が多くなっているとマリーからも聞きました。

ガンビエール諸島のアルバム (写真をクリックすると拡大します)
ガンビエール・マンガレバのシェマック(右)とジャン

ガンビエール・マンガレバの
シェマック(右)とジャン
ガンビエール・リキテアハーバーにて

ガンビエール
キテアハーバーにて
ガンビエール諸島

ガンビエール諸島

( ガンビエール 〜 ライババエ )

10月18日早朝、風の凪の内にアンカーを揚げアンカリング地を出港しました。マリーが昔の船乗りの別れの時のように大きなホラ貝を吹いて見送ってくれました。 次の目的地は同じフレンチ・ポリネシアに属するライババエ島Raivavae(南緯23度52分、西経147度41分)でガンビエールから約710マイルのほぼ真西の方向にありました。タヒチ島まで無理をせず徐々に近づくコースとして選びました。このクルーズは風にも天候にも恵まれ大きなトラブルもなくステイスルと3/4にリーフしたメインセールでも約6日(平均約5kt)で到着することができました。

( ライババエ )

ライババエ島では思いがけないうれしい出会いがありました。ぽれーるがガンビエールのパスの手前ですれ違って無線コンタクトしたフランスのヨット「フェル・デ・セル」のニコラスとハイデーでした。ライババエ島の北側パスの手前で入港のためジェンダメリエに無線コンタクトを何回か試みましたがやはり何の返答もありませんでした。しばらくした時、ぽれーるを呼んでいる無線の声が聞こえました。応答するとその声の主はニコラスでした。そして「何かぽれーるにトラブルでも発生したのか。」と訊かれ「いいえ」と答え、「ぽれーるは今、北側パスを通過するところだ。」と言ったところ、ニコラスから「パスを入った正面の標識のあたりでランデブーしよう。」と言われました。フェル・デ・セルは三日前にラパ島からライババエ島に着き、その日は朝からライババエ島のリーフ内の一周クルーズをしていたところでした。15分もしない内にランデブーし挨拶を交わしてフェル・デ・セルの後を追って1.5マイル先の島の北西部にあるアンカリング地まで同行しました。ぽれーるはアンカー作業を終了して、早速、ディンギーを下ろし手漕ぎで50m離れたところにアンカリングしているフェル・デ・セルを訪問しました。

たった一度ガンビエールで無線のみの交信でしたが何か懐かしい友人に会ったような気がしました。ニコラスとハイデーは30才半ばですが2年前に結婚し、新婚旅行でフランスのボルドー近くの港を出港し一旦イギリスのスコットランドを経てノルウェー北部の北緯70度まで行き、南下してポルトガル、カナリア諸島、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、ケープホーン、パタゴニア、イースター島、ピトケアン島、ガンビエール、ラパ島を経てライババエ島に来ていました。ピトケアン島では彼らも2日間洋上で待ったそうですが天候が回復せず上陸はできなかったそうでした。フェル・デ・セルは船体が鉄の40ftのスループでキャビンの上の天井にはバブルウィンドー、キャビン出入口は鉄製のしっかり密閉できるドアで、室内には寒冷地で威力を発揮する大きめの軽油ストーブと排気管が設置されていました。その夜はハイデーの作ったディナーを頂きワインを飲みながら遅くまで談笑しました。こういう夜は、いろいろ苦しい思いやトラブルはあってもクルージングしていて幸せを感じる時間でした。

ライババエ島はオーストラル諸島(人が住む島は左からリマタラRimatara、ルルツRurutu、ツブアイTubuai、ライババエRaivavae、ラパRapaの火山性5島)に属し周囲をリーフで囲まれた長さ4マイル、幅1.5マイルの細長い小さな島ですが長さ方向に400m級の岩肌の尾根が連なった壮観さと美しいラグーンはソサエティー諸島の観光地で有名なボラボラ島と比較されるほどでした。この島には黒真珠の養殖はなく農業と漁業と観光で約1000人が暮らしていました。行政の中心地はライルアRairuaで港とその沖にアンカリング地がありました。ライルアはマンガレバ島のリキテアよりも閑散としていて車は時々走っていましたが日中でもあまり島の人を見かけることはありませんでした。翌日、私はニコラスに教えてもらったライルアのジェンダメリエに行きアンカリング地に停泊している旨の報告しました。そして、持ってきた自転車で島一周を開始しました。

海岸に沿った道は一カ所の丘越えの坂を除くとほぼ平坦で、島の南東側にはリーフを埋め立て造られたた飛行場、所々にある小さな教会、学校、集会場、観光客用の民宿、マガザン、民家はそれほど村のように密集していませんが間隔をおいて島の周囲全体に散らばっていました。そして、その前の海岸には漁業用のカヌーが置かれていました。また、途中、サイクリングを楽しんでいる観光客をよく見かけお互い手を振りながら挨拶を交わしました。写真を撮りながらゆっくりと15kmの道を2時間少しで走り島一周のサイクリングは終わりました。 翌日、ニコラス、ハイデーと私の三人でアンカリング地の近くの小高い丘にハイキングに行き、景色のいいところでハイデーが作ってきてくれたサンドウィッチを食べ、その帰り丘を越えて隣の村へ下りニコラスがライルアで聞いていた野菜を売ってくれる民家へ行きました。

タマネギ、茄子、キュウリ、トマト、エンドウのような豆等の野菜類、バナナ、スイカ、マンゴの果物がありましたが形も色も大きさまちまちで虫食いがあったりして日本では決して商品になるようなものではありませんでした。私はタマネギと茄子とトマトを買いましたが値段は決して安くありませんでした。その民家の主人は一人暮らしの70才を越えたフランス人でマンガレバ島で出会ったシェマックと同じく外人部隊出身ということでした。奥さんも地元の人でしたが5年前になくなり、子供達はタヒチ島で暮らしていているということでした。帰り道、海岸通りの道に出て三人で歩いていた時、少し土で汚れたランドクルーザーが止まりライルアの港まで送ってくれました。運転していたのは作業着の上着とジーパンをはいた30才ぐらいの精悍そうな若者でした。 車内ではハイデーやニコルといろいろ話していましたがフランス語のため内容は分かりませんでした。そして、港に着き「メルシー・ボクー」と言って握手して車を降り、車が行ってしまってからニコラスがあの人はこの島の市長さんで市が行っている工事現場からの帰りだったと教えてくれました。

その夜、ニコラスから無線で連絡が来て、明日、フェル・デ・セルはライババエ島を出港し隣のツブアイ島Tubuai(南緯23度21分、西経149度29分)に向かうがぽれーるも一緒に行かないかという誘いがありました。ぽれーるがライババエ島に到着した夜にニコラスから27日に出港することは聞いていましたが、一緒に行くかどうかは決めかねていました。 その夜の無線であらためて誘われた時、何となくぽれーるが取り残されてしまうような侘びしい思いが募り「ぽれーるも一緒にツブアイ島へ行きたい。」と言ってしまいました。翌朝9時半にニコラスと一緒にディンギーで上陸してライルアのジェンダメリエの事務所に出港する旨の報告をしました。フェル・デ・セルは6日間、ぽれーるは3日間のライババエ島滞在でした。

( ライババエ 〜 ツブアイ )

27日11時過ぎにアンカーを揚げ機走でライババエ島のリーフ内の細い水路を通りながらメインセールを展張しパスを抜けて2隻のヨットは外洋に出ました。フェル・デ・セルはさらにジブセール、ぽれーるはステイスルを展張し約束通りお互いの帆走中の写真を取り合いました。西北西の方向にあるツブアイ島まで約100マイル、天候はまずまずで北東の風10kt前後と少し弱いかったですが明日の夕刻までには目的地に到着できそうでした。フェル・デ・セルが先行しぽれーるがその後を追うように続きました。時々スコールが来ましたがそれほど風は強くなく常に相手の船を視認しながら進んでいきました。夜になって少し2隻の距離は開きましたがぽれーるからはフェル・デ・セルの航海灯がいつも見えていました。

( ツブアイ )

ツブアイ島のアンカリング地マタウラMatauraには、翌日28日、フェル・デ・セルが15時半、ぽれーるは少し遅れて17時半に到着しました。ツブアイ島はライババエ島よりも少し大きく東西が約5マイル、南北に約3マイルの楕円のような形をしていました。島の約1マイル沖にリーフがありほぼ全周を防波堤のようにカバーしていました。パスは北側にありマタウラのアンカリング地はパスを抜けて東へ約1マイル走ったところにありました。フェル・デ・セルとぽれーるは海岸から約200m沖に並んでアンカリングしました。そこから少し東側にラグーンを埋め立てて作られた桟橋が海岸から約300m北西方向に伸びていて2週間に一度タヒチからフェリーが来るとのことでした。また、島の中央やや東寄りに標高約400mのタイナ山と谷を挟んで南西部の海岸寄りに約350mの岩山がありなだらかなすそ野が広がっていました。

オーストラル諸島には昔は好戦的な人々が暮らしていて絶えず隣の島やタヒチと戦いが続いていたそうです。1769年にルルツ島、1777年にツブアイ島とライババエ島がイギリス人のクック船長により発見され、その後ヨーロッパー人が幾度か定住を試みましたが原住民の抵抗にあって長続きはしませんでした。しかし、19世紀の後半になってヨーロッパー人が持ち込んだ病気で次第に島の人口が減り、抵抗も薄れてフランスがこの島々を統治するようになりました。 ツブアイ島はなだらかなすそ野を使った農業が盛んでコーヒー、コプラ、バナナ、オレンジ等が栽培されおりそのほとんどはタヒチへ運ばれていました。この農業と漁業及び観光で島には約1600人が暮らしていました。

フェル・デ・セルのクルーズ計画は30日にツブアイ島を出港しルルツ島を経てライアテア島に行き、11月9日から三日間行われる世界最大の外洋カヌーレースを観戦してライアテアのシップヤードで船を上架して保管し、ニコラスとハイデーは、一旦、飛行機でフランスに帰国し次の4月にライアテア島に戻り南太平洋クルーズを再開するというものでした。ルルツ島は日本にいる時、NHKのテレビで確か「ルルツの海」とい題目でクジラのサンクチュアリーとして紹介されているのを見た覚えがあり何となく興味を持っていましたし、世界最大の外洋カヌーレースも見てみたいという思いもありました。それと、ツブアイ島からほぼ真北の350マイルにあるタヒチ島へ行きぽれーるの修理を行いミヤグチさんにお会いするのが先だろうという思いもあり二日間悩むことになりました。

もちろん、このままフェル・デ・セルと一緒に行動しライアテア島のシップヤードでぽれーるを修理し、その後、タヒチ島に行ってミヤグチさんにお会いすることもできました。しかし、結局、ぽれーるはこのツブアイ島でフェル・デ・セルと別れることにしました。 30日早朝、フェル・デ・セルはアンカーを揚げぽれーるの直ぐ横を通り過ぎながら「いつかまたどこかの海で会おう。」といい手を振りながら遠ざかって行きました。フェル・デ・セルがパスを抜けセール張りその姿が小さくなるまで見送っていました。

その日は日曜日で天気もよかったので自転車でツブアイ島を一周することにしました。ディンギーに折りたたみ自転車を積んで桟橋に行き、上陸して自転車を組み立ててゆっくりと反時計回りに走り始めました。3kmほど走ったところで私よりさらにゆっくりと4台の自転車で走っている小学生低学年ぐらいの女の子達に出会いました。少し併走しながら私が「イヨナラ(こんにちは)」と言って「ウエ・・(どこ)」と訊くとクスクスと笑いながら私が尋ねたかった「どこに行くの?」が通じなかったのかと思っていると先頭の女の子が前方を指さしていました。私は子供達の自転車の後ろについてさらにゆっくりと走りました。そこから3kmぐらい走ったところで海岸側の右側がひらけ飛行場の滑走路エンドが見え、飛行機の降下経路角を示すバシスライトの赤灯がまぶしく点灯していました。多分、もうすぐ飛行機が降りてくるのだな思いながら海岸線に沿って北東から南西に延びる滑走路横のフェンス越しの道を走りました。

2kmほど行って反対側の滑走路エンドにあるターミナルに着き子供達の後ろに従ってターミナルの前の駐車場へ入りました。既に駐車場には30台ほどの車が止まっており、村人も50人ほどが飛行機の到着を待っているようでした。飛行場の吹き流しを見ると北西の風で南西に流れていたので飛行機は北のタヒチ方向から飛んできて左旋回で回り込み南西側の海の方向から進入して来ると思いその周辺の空を見ましたが飛行機を見つけることはできませんでした。子供達と飛行機を待つ間、時間つぶしに数字遊びをすることにしました。私が指を立てながら「アン、ドゥー、トロワー、カトル、サンク」と言うと直ぐに子供達が首を横に振りながら「トゥロワ」「カトウル」と4年前から変わっていない私のフランス語の「3と4」の発音のおかしいことを指摘されました。次に私が「いち、にー、さん、しー、ごー」と言うと子供達も「イキ、ニィ、サア、・・」と言い、今度は私がダメダメとジェスチャーで言う番でした。

こんなことを何回か繰り返しながら、いつもならリュックの中に「折り紙」を入れているのに今日に限って入れてこなかったことを後悔しました。そうしている内、10時半を過ぎた頃、飛行機の音が聞こえ子供達の関心は私から離れて飛行機に移っていました。着陸してから10分ほどして飛行機がターミナルに入ってきました。タヒチ・エアでローカル路線に使われているDASH-8でした。乗客は20人ほどでしたが私が後ろから見ていましたが子供達の知り合いらしい人はいませんでした。子供達はただ飛行機が来るのを見に来ただけのようでした。掲示板を見ると飛行機は今日の16時半の離陸予定でほとんどの人が車に向い帰るようでした。

子供達と別れる前に私は前々から少し長くなって気になっていた髪を切りたいと思い、チョキチョキと人差し指と中指でハサミの格好をつくって自分の髪を切るしぐさをし両手を広げて「誰か床屋さんを知らないか?」と日本語で尋ねました。みんなはじめキョトンとして私が訊いていることが分からないようでしたが、一番年上そうな子が別の女の子を呼んで何事か話し、しぐさで私にその子の後を付いていくようにと言っているようでした。私は最初に出会った子供達に「オ ルボワール さようなら」といって別れ、その子の自転車の後を付いていきました。ターミナルの近くの村にはマガザンはありましたがあとは数件の民家だけでした。奥まったところの民家の前でその子は指さし「ここよ」と言っているようでした。

私はその子に「メルシー」と言って手を振り、ただの民家でここが床屋さんだとはとても思えなかったですが一応垣根の外から「ボンジュール」と声をかけました。40才ぐらいのその家の主人が出てきて私を見たので私はジェスチャーで髪を切るしぐさをすると手招きで入ってくるようにと言われました。庭の真ん中で待っていると今にも壊れそうな黒ずんだ白いプラスチックのビーチチェアーを持ってきてそこに座るようにと示されました。座ると直ぐ雨カッパのような半透明なビニールを私の首に巻き櫛と電動バリカンで髪切りが始まりました。その主人が持ってきたバリカンや櫛を入れた箱の横には「Adulte1000、Enfant500」と消えそうな字で書いてありました。手際よく10分ほどで終わり、1000PF払って「メルシー」と言ってその民家を出、身の頭も軽くなったところで再び自転車による島一周の続きが始まりました。

三分の一周を終えたところで12時となったので持ってきた海苔巻きおにぎりとペットボトルに入った日本茶で昼食をとることにし自転車を道路脇に置き一段高くなった平らな岩の上に腰をかけました。私の後ろには350mほどの岩山がそびえ、前には椰子の木の間から青いラグーンとリーフそして遠くの水平線の彼方が見えていました。昼食と休憩で30分休み、再び自転車の乗り走り出しました。島の南側はすそ野が広がりその中にきれいに区画された農園と牧場が見えていました。ツブアイ島の牧場や草場には馬が多く放牧されていて道筋でも馬に乗った村人に何回か会いました。途中、二回スコールに遭い、一回目はそのまま自転車で走り続けましたが二回目は雨粒が大きかったので道の脇の大きな松の木の下で雨宿りをしていました。ちょうど、斜め前に集会場のような建物があり軒下で村の若い女性4人が雨宿りをしていて私にこちらに来るようにと手招きをしてくれました。

私は自転車を押して移動し彼女たちが勧めてくれた椅子に腰掛けて雨の止むのを待っていました。その内一人の女性が私に「シノワイズ ・・・」とか何とか言って何かを尋ねているようでした。私は首をかしげながら数少ないフランス語で「Je ne comprends pas francais.私はフランス語がわかりません。」と答えました。そうするとその彼女は土に「Chinois」と書いたのでやっと私は彼女があなたは中国人かと訊いているのがわかりました。私が「ジャポン」と答えると彼女たちはビックリしたように「ジャポン、ジャポン」と言い合っていました。そして同じ彼女が首を横に振りながら「ナミ、ナミ」と言って悲しそうな表情をしました。私が「ツナミ?」と言うと「ウィ」と答えてくれたので彼女たちが東日本大震災のツナミのことを知っていて悲しい顔をしたということがわかりました。

10分ぐらいで雨が止み彼女たちと別れる時、ごく自然に一人一人とハグして別れの挨拶をしました。そして、私が自転車に乗って走り出すと大きな声で「ジャポン」と言いながらOKサインを送ってくれました。南太平洋の小さな島で日本のほとんどの人が知らないようなツブアイ島の若い女性達が「日本がんばれ!」と声援を送ってくれたことにたいへん感激し、感謝の気持ちで一杯になりました。自転車による島一周が終りぽれーるに帰っても何かこころが温たまる思いが続きました。ニコラスとハイデーが行ってしまい少し寂しい思いをしていましたが、島の子供達や女性達との思わぬ出会いは私に元気をくれました。

( ツブアイ 〜 タヒチ )

翌日31日、ぽれーるは出港してタヒチに向かおうと思っていましたが朝から風が強く、リーフの外は白波が立っていました。右舷シュラウドにトラブルをかかえていなければ出港しましたが無理をしたくなかったので風が収まるのを待つことにしました。強風は2日間続き少し収まった11月2日朝、アンカーを揚げツブアイ島を後にしました。 タヒチ島パペーテまで350マイルでしたが今度は風が弱く雨がしとしと降る日が多く風向も北、東、西、南とぐるぐるまわっていたためぽれーるは右に行ったり左に行ったりしていました。

( タヒチ )

タヒチ島をランドフォールしたのは9日の午後でした。かなり近づいた中で見えたタヒチ島は雨の中で霞んでいましたがライババエ島やツブアイ島から来た私にはその大きさにあらためて驚かされました。タヒチ島の西のリーフに沿って北に進みだんだん見覚えのあるマリーナ・タイナが近づきましたがその周辺に見えるヨットのマストの多さにも驚きました。タアプナTaapuna(南緯17度36分、西経149度37分)のパスを通過する時、右側の波の立っている場所では雨が降っているにもかかわらずたくさんの若者がサーフィンを楽しんでいました。狭い水路を抜けてマリーナ・タイナ沖のアンカリング地には15時半頃に到着しました。しかし、停泊しているヨットが多すぎてアンカリング・スペースを見つけることができませんでした。

ラグーン内の航路帯にはみ出して違法アンカリングしているヨットもいました。4年前に来た時にアンカリングしていた周辺にはプライベート・ブイが50ぐらい設置されていてまったくスペースがありませんでした。ここでのアンカリングを諦めてファアア空港の北側かパペーテ港に行くかと考えていたところ、航路の北側で海岸よりのアンカリング地から1隻のカタマランヨットが出ていくのが見えました。直ぐにぽれーるをその場所に移動させ小さく回りながら他の停泊しているヨットとの間隔や周辺の水深を調べました。そのスペースの真ん中にぽれーるを停泊させ風や潮流による振れ回りを考慮すると他のヨットとの間隔はギリギリでした。また、周辺の水深は10mから3mと海岸側に傾斜して浅くなっていて海岸側には水深1mほどのコーラルが迫っていました。しかし、比較的空いているだろうと思われる空港北で停泊した場合少なくとも上陸するのに5kmほどディンギーで走る必要がありました。

仕方なくそのポイントでアンカリングし、ぽれーるの前後左右にフェンダーを吊しました。その夜、2回スコールが来て船が振れ回り隣のヨットとやはり5mを切ったぐらいまで接近し少しハラハラしましたが、ハンディーGPSの電源を入れアンカードラッグ・アラームをセットして中央キャビンで横になりました。 翌日、起き出して周りを見ると停泊しているヨットのほとんどはフランス国籍で、その他はイギリス、ドイツ、ベルギー、スイス等のヨーロッパからヨットでした。フランスのヨットの内、ブイ係留とマリーナに停泊しているのが地元のタヒチのヨットと思われました。しかし、いつもなら必ずいるはずのアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのヨットをその時は一隻も見つけることができませんでした。

朝食を済ませてから長い航海と修理等でゴチャゴチャになっていたキャビン内を片付け、ディンギーを用意し9時半になったところで、素線切れしたシュラウド、壊れた接続金具、重いウインドラス・モーター、燃料フィルターを持ってマリーナ・タイナのジェッティーに上陸しました。マリーナとその海岸にあるレストランは4年前に来た時とほとんど変わっていませんでしたが4年前には4、5隻のメガヨットや大型クルーザーが並んでいたメインバースには中型のクルーザーが1隻のみ係留されていました。そして、まっすぐマリーナ内にあるマリンショップへ行きました。ショップに入りそこにいた女性店員に話しかけると奥にいた英語も話すフランス人のオーナーを呼んでくれました。そのオーナーは私がガンビエールから電話したことを覚えていてくれました。

そして、壊れたシュラウドを見せ新規製作の見積もりをとってもらったところ私が考えていたよりもかなり高い金額が示されました。その内容についてオーナーに尋ねると、先ず、ワイヤー・エンド金具のネジが逆回りでそれに繋げるターンバックルと接続金具も交換しなければならないこと、次に、ワイヤー径12mmのワイヤー・エンド金具とターンバックル及び接続金具は手持ちがないのでフランスから取り寄せなければならないことと言われました。そして、フランスからの輸送を航空便(一週間)ではなく船便(1ヶ月以上)でいいなら見積価格から10000PFは安くなると言われました。私もアメリカ系とヨーロッパ系ではシュラウドやステーのエンド金具のネジの回転方向が逆であることとインチとメートルネジの違いのあることも知っていました。

そこで私がシュラウド・エンド金具をアメリカかニュージーランドから取り寄せることができないのかと尋ねるとオーナーは「そんなバカなものはうちでは取り扱わない。」と言われてしまいました。そして、オーナーから「日本はフランスのメートル規格を採用していないのか。」と逆に訊かれ「日本もメートル規格は採用している。」と答えるしかありませんでした。それにしても部品の価格がニュージーランドでの実績に比べ2〜3倍以上はしていると思われました。また、金具類のフランスからの輸送経費も考えていませんでした。次に私が壊れた接続金具をオーナーに見せると机の中から同じような接続金具を取り出しこの新しいタイプの金具に換えろと言われました。ただし、新しい接続金具を取り付けるにはそれに繋がるターンバックル及びワイヤーも交換しなければならないということでした。

シュラウドの製作オーダーは少し返事を待ってもらうことにし、ショップにあったインパクト・ドライバーを借り、持ってきたウインドラス・モーターのロングスクリューを外してみることにしました。ショップの外にあった作業台の万力にモーターを挟みハンマーも借りて叩くと一発でロングスクリューを弛めることができました。モーターの側面カバーを外すとやはりモーター軸の整流子に四方向から接触しているブラシの一つが外れていました。4つのブラシ・ホルダーを固定しているドーナツ状の絶縁体が割れたため外れたことも分かりました。それをショップのオーナーに見せ修理の可否を尋ねるとこのショップではやらないがということでパペーテ郊外にある何軒かのマリンショップ、電機店、鉄工所の場所の地図を書いてくれました。また、燃料フィルターはこのショップでは取り扱っていないので地図のマリンショップで訊いてくれとのことでした。

最後に燃料タンク内の清掃をやってくれそうなショップについて尋ねると分からないと言いながら一枚だけ名刺を渡してくれました。素線切れしたシュラウドをショップに預かってもらって重いウインドラス・モーターをリュックに入れ近くの大型スーパーのカルホールCarrefourに行きました。ATMで5000ポリネシア・フランを下ろし、携帯ショップでシムカードを買い、ガンビエールでシェマックから教えてもらったミヤグチさん宅に電話をしました。しかし、ミヤグチさんは不在のようで電話に出てくれた女性はフランス語しか話さなかったので話しがうまく通じず一方的に「メルシーボクー、マダム。セキ ア テレフォネ(ありがとう奥さん、こちらセキといいます。)」で電話を切りました。いずれにしてもパペーテへ行かなければならないので重たい荷物を背負ったまま近くのバス停へ行ってルートラック(2007年にタヒチを訪れた時に庶民の足として走っていたトラックの荷台にイスを取り付けたバス代わりの乗り物)を待っていました。

一度、ツアーに使われるような大型バスが止まりかけましたが私が座ったままいたためかそのまま通り過ぎました。なかなかルートラックが来ないのでどうしたのかなと思っているとイヤホーンから大きな音で音楽を鳴らしながら携帯電話を操作している若者が来て私の隣に座りました。彼が聴いている音楽はタヒチアンミュージックではなくアメリカン・ロックでした。また、同じようなバスが来た時、横にいた彼が手を前に差し出しました。するとそのバスは止まり、前の自動ドアーが開きその若者が乗り込みました。私は慌ててバスのドアの前に行きドライバーに「パペーテ?」と訊くと「ウイ」と言われたので乗り込みました。運賃は130PFで車内はエアコンが効き座席もルートラックのような板ではなく座り心地のいいものでした。バスは途中の停留所でお客さんを乗せ降りしながら20分ぐらいでパペーテの中心街に着きました。

後でミヤグチさんに伺ったところルートラックは観光客用のものを除いてタヒチだけではなくほとんどの島でもなくなったということでした。また、ルートラックだけではなくパペーテ港もかなり様変わりしていました。ぽれーるが2007年に初めてタヒチを訪れた時に係留した道路横の係留スペースはなくなり、そこには新たな桟橋が2本作られ大きな字で電話番号が書かれたチャーターヨットや観光船が並んでいました。そして、その桟橋の入口は頑丈で大きなセキュリティーロックの効いたドアが閉まっていました。雨期にタヒチに来たのと大きなフェリーターミナルが建設中だったせいか、町の中は工事用のフェンスが並び泥や土で汚れていました。また、街の通りには以前来たときには見かけなかったホームレスの人も目立つようになっていました。

重たい荷物を背負ったまま、先ず教えてもらった電機店、鉄工所を回りましたがどこもモーターの修理とか接続金具の製作については請け負ってくれませんでした。パペーテ到着の翌る日からぽれーるの不具合がすべてうまく解決するとは思っていませんでしたが、もう少し何とかなると考えていたのですっかり当てが外れ疲れてしまいました。仕方なく今日はマリンショップへ行って燃料フィルターだけでも買って帰ろうと思い町はずれのマリンショップに行くと入口のドアは閉まり「11:30 〜 15:00 ランチタイム」というプラカードがドアノブにかかっていました。時計を見るとまだ13時半、「何がランチタイムだ!、日本では昼休みといって閉めてしまうような店なんか一軒もないぞ、商売をやる気があるのか!こんな店では買ってやらないぞ!」と頭の中で叫びながらも「せめてランチタイムは14時までにして欲しかった。」と思っていました。

しかし、結局、ここまで折角来たという気持ちと降り出した雨に足が止まり店の前の軒先で佇むことになりました。15時の5分前になって店が開き、カウンターへ行って持ってきた4種類の古いフィルターをカウンターの上に並べそこにいた若い店員にそれぞれのパーツナンバーと必要数を書いた紙を見せながら注文しました。その店員は少し怪訝そうな顔をしてエンジンの型式を教えて欲しいと言いました。私がエンジンとジェネレータエンジンのYANMARの型式を言うと店員はこの店の取り扱っているエンジン部品はVOLVO PENTAが主でYANMARの部品は置いていないと言い首を横に振りました。私はその時、店員の選び方を間違えたと思いました。なぜなら、私が以前買った燃料フィルターの中には互換品としてVOLVO PENTA製のものもあったからです。この店員はその互換品も調べくれようとはしませんでした。

もともと燃料フィルターはエンジンメーカーが違っても同じフィルターを使っていたりサードパーティーを含めて多くのメーカーが互換品を出していました。私は自分の正面にいた頼りない若い店員を無視して隣に来た少しベテランそうな年上の店員に声をかけ同じようにカウンターの上の燃料フィルターを示しながら要求しました。ベテランそうな店員は私が持ってきたフィルターの一つを手にとって頼りない若い店員に何かフランス語で耳打ちしました。その頼りない店員はカウンター奥の部品棚の方へ行って暫くしてから3個のVOLVO PENTA製の燃料フィルターを持ってきて表情も変えずに平然と私の前に並べました。1時間半も待たされてあげくこの若い店員の態度に腹が立ち、このジェネレータ用No1フィルターの私の要求数は3個でしたが1個だけ買って二度と来ることのないマリンショップを出ました。

一番欲しかったエンジンのNo.2燃料フィルターも手に入れることができず疲れが増した足取りでバス停留所へ向け海岸通りを歩いていました。ふと気が付くと懐かしい海岸通りにあるレストランBRASSEURSの前まで来ていました。4年前、タヒチクルーズを一緒に楽しんだ橋本さん、甲斐さん、それから偶然パペーテ港で出会ったヨット「リバティー」の林さん、金子さんが今私が見つめている店先のテーブルを囲みこのレストラン特性の地ビールで乾杯をしていた光景が目に浮かびました。あの時はもっとタヒチが輝いていたように思いました。私は自然とそのテーブルに向かい腰をかけました。雨が降っているせいかお客は観光客らしい老夫婦が店の奥のテーブルにいるだけでした。店員が来て私の座っている席では雨しぶきが時々飛んでくるので奥の席を勧めてくれましたが、私はここでいいと言ってあの時と同じビールを注文しました。

二杯目のビールを飲んでいた時、私の携帯電話が鳴り、唯一番号登録していたミヤグチさんからでした。電話に出て挨拶し、ミヤグチさんが自宅から車で私がいるレストランまで来ることになりました。それから30分ぐらい経ち私が3杯目のビールを飲んでいる時、ミヤグチさんが到着しました。あらためて自己紹介しビールで偶然の出会いに乾杯しました。もちろん、その時、初めて宮口さんにお会いしたのですが私には既にどこかでお見かけしたような印象がありました。宮口さんは私と同じ1950年生まれでたいへん気さくな方で最初から意気投合してしまいました。その日はそのまま宮口さん宅に伺い私からシェマックとの出会いやクルージングの話をし、宮口さんからは日本からタヒチに至までの経緯やタヒチの現況についていろいろ話を聞きました。

その中でも南太平洋の楽園と言われているタヒチも世界的な不況が影響して観光客が減り大きなホテルが倒産したり撤退しているということも聞きました。その後、美味しい夕食をいただき、久し振りに熱いシャワーを浴びそのまま宮口さん宅に泊めていただきました。宮口さんはフレンチ・ポリネシアに既に25年間住んでおられ、タヒチの永住ビザもお持ちでした。日本におられた時はプロのトランペット奏者として活躍されていた音楽家でもありました。また、宮口さんの父上は俳優の「宮口精二」で映画やテレビドラマに活躍され、有名な映画「七人の侍」の中の一人として出演されていました。どおりで私が最初にお会いしたときにどこかでお見かけしたという印象があったのは風貌が父上にそっくりだったからでした。

宮口さんは35才の時、もともと抱いておられた海外生活を実現させるため、日本を出国して南太平洋の島々で旅行関係や黒真珠養殖事業等を手がけられたそうです。現在はそれらの事業から離れられ、タヒチ観光局に勤めておられる奥様(マリクレーンさん)と養子として中国から迎えられた息子さん(エド君10才)と奥さんの知り合いの女性(チンチンさん)の四人でパペーテ郊外のマラアポMaraapoというところに住んでおられました。宮口さんは料理が得意で家族の方の三度の食事をはじめ、私が食べてみたいという日本料理からタヒチ、中華、西洋料理を一流シェフ並みの腕前で作ってくれました。また、宮口さんのお宅はパパイヤ、バナナ、マンゴ、パーションフルーツ等の果樹と南国の美しい花の咲く木々に囲まれた約300坪の敷地内にありました。

お宅の増改築や内装をはじめ、ベット、収納庫、鏡台、洗面台等の家具の製作はすべて宮口さんが手がけられたものでした。そして、庭には専用の作業室があり、コンクリートの小型ミキサーや溶接機、木工作業に必要な工具類はすべて揃っていました。その後も何回も食事や宿泊、親戚の方や家族で行うパーティーに招待されました。また、ぽれーるの修理や部品の調達、買い物等で必要な時は宮口さんが車で連れて行ってくれました。ぽれーるにも宮口さんの家族やその友達を招待してパーティーや船の周りでのスイミング、デークルーズを楽しみました。その頃には、ぽれーるは他のヨットが出港した後の少し広くてマリーナに近いポイントに移動してアンカリングしていました。 タヒチに着いてから2週間が過ぎた時点でもぽれーるの修理はいっこうに捗っていませんでした。

マリーナ内のマリンショップのオーナーは私がシュラウドの製作オーダーを躊躇している間に長期バカンスでフランスに帰ってしまっていました。そんな時、同じアンカリング地にいたイギリスのシングルハンドのヨット「チキータChiquita」のディングDingと知り合いました。お互いシングルハンドとして苦労した整備や修理について話し彼のパソコンの中のクルーズ記録の写真を見ていた時、その中に私が写っている写真を見つけ驚きました。その写真はどこかの部屋の中のパーティーで椅子に座ったディングと彼の友人達が乾杯しているところで、その直ぐ後ろを通り過ぎる私の横姿でした。その写真の撮影日と場所を訊くと2007年11月ニュージーランドのオプアということでした。ディングと私は4年前に既に1m以内までに接近していたのでした。

また、後日、今度はぽれーるで私の持っているオプアの写真を見ていたディングが驚きました。その写真は私と肩を組んで再会を祝しているフランス人の若者のゴードンとのものでした。ゴードンは7ヶ月前まで半年間ディングのヨット「チキータ」のクリューでした。ディングと私は「世界は大きい、ヨット仲間の世界は小さい。」と叫んで乾杯しました。そんなディングがフランス人から聞いた「アピ・ヨティングApi Yachting」を紹介してくれました。そのショップはパペーテ港の埠頭のどこかにあるということで宮口さんにお願いして車に素線切れしたシュラウドを丸めて積みディングも一緒に付き合ってくれて探しに行きました。そのショップは直ぐに見つけることができました。

早速、シュラウドの製作を交渉するとマリーナ内のショップと同じようにターンバックルと接続金具も交換しなければならないと言われましたが、約20000PF安かったのでその場で製作を依頼しました。そのショップは特に忙しそうに見えませんでしたが、新しい右舷前方シュラウドはそれから10日して出来上がりました。この新しいシュラウドの入手で素線切れしたシュラウドに付いていた接続金具を右舷後方シュラウドの半肩の壊れた接続金具と交換し、一応、シュラウドのトラブルは解決しました。 パペーテに到着してから、ウインドラス・モーターの修理と燃料タンクを清掃してくれそうな業者を捜していましたが一ヶ月経っても業者を見つけることができませんでした。

最初、唯一、頼りにしていたショップのオーナーからもらった名刺の会社名「プロ・マリン 」で「Maintenance Generale(整備一般)」「Groupe du technicien(技能者集団)」と記載されていたショップに期待しました。しかし、電話をかけジルという担当者に尋ねたところ「エンジンの修理はできるが燃料タンクの清掃はやったことがない。」と言って断られました。そして、ウインドラス・モーターの修理について同じ電話で話すと「おまえの言っている英語の内容がよく分からないのでモーターを持ってショップまで来てくれ。」と言われました。私は再び、重いモーターを背負ってバスに乗り電話で教えてもらったパペーテ港の北にある漁港の前の「プロ・マリン 」へ出かけました。

やっとショップについて分解していたモーターをジルに見てもらったところ「この壊れている部品の新しい部品はあるのか?」「No」「この部品のパーツナンバーは?」「We don’t know.」「・・・・・」、ジルは肩をすくめて両手を上げ、バイバイ(さようなら)と言うように右手を振りました。私は帰りの道すがら「部品があるなら自分で直しているよ。パーツナンバーを調べてニュージーランドかでも部品を取り寄せる気なのか。」そして「あの会社には“プロ・マリン”の名は似合わないし、“技能者集団”の文字は名刺から削除すべきだ!」と毒づいていました。同時に、最近、どうも自分が愚痴っぽくなっていることに気付き頭の中で「前向きに、前向きに、考えなくっちゃ」と唱えながらぽれーるに帰りました。

結局、タヒチではウインドラス・モーターの修理と燃料タンクの清掃をやってくれる業者を見つけることは困難と考え、自分でやるしかないと覚悟を決めました。 ウインドラス・モーターの不具合は4つあるブラシ・ホルダーを90度毎の位置で固定しているドーナツ状の絶縁体が二カ所で割れそのためブラシ・ホルダーの1つがフリーで接触面が整流子から離れてしまっていたためモーターが回転しなかったのでした。このフリーになっているブラシ・ホルダーを固定すればいいのですが、手で何回か元の位置に戻しましたが支えを失ったブラシ・ホルダーはブラシを押すバネの力で直ぐ上向き整流子面から外れてしまいました。

通常の接着剤ではこのバネの力とモーター回転時の発熱を考えると持ちそうにありませんでした。また、絶縁体は薄くガラスを固めたもので孔を開けたりビス等で止めるつば部分もなく、狭いスペースで鉄類を使うと電気ショートを心配しなければなりませんでした。結局、このフリーになっているブラシ・ホルダーを左右のブラシのホルダーと共にFRPの修理に使っているエポキシで固めて固定することにしました。作業は30分もかからずに終了し一日よく乾燥させて硬化しているのを確認してヤスリで整形しモーターを組み立てました。そして、12Vバッテリーに繋ぐとモーターは勢いよく回ってくれました。アンカリング時のモーター稼働時間を考慮して何回かテストを繰り返しましたがモーターは問題なく回ってくれました。 モーターをウインドラスのギアボックスに組み込み実際にアンカー揚げてみましたが問題なく行えました。

ウインドラス・モーターの修理が終わり少し心の余裕ができたところで燃料タンクの清掃について少し時間をかけて考えることにしました。当初、汚染している燃料は全部を投棄処分することも考えてマリーナ・タイナの管理人に相談し、マリーナにある廃棄オイル用のドラム缶に汚染燃料を投棄する承諾を受けていました。しかし、ディーゼル燃料はタンクに入っている約580リットルと5ガロン容量のポリタンク4缶に入っている約70リットルの計約650リットルでした。タヒチのディーゼル燃料は1リットル170PFでもし全部を投棄すると110000PF(約9万円)を捨てることになりました。ガラパゴスからの航海中に手動ポンプでタンクから燃料を採取し「採取したままの燃料」、「コーヒーフィルターを使って濾過した燃料」、「濾過した燃料に抑制剤(BIOCIDE)を加えた燃料」とそれぞれ約1リットルずつ透明なペットボトルに入れてその後の状況を観察していました。

採取してから3ヶ月が過ぎ「採取したままの燃料」のペットボトルの底には既に黒くドロッとした5mmぐらいの層があり、「コーヒーフィルターを使って濾過した燃料」のペットボトルの底には少し濁った層約2mmとその中に黒くて0.1mm程度の粒が数個ありました。そして最後の「濾過した燃料に抑制剤(BIOCIDE)を加えた燃料」には赤い色をしたサラサラしているように思われる層が底に2mmぐらい貯まっていました。通常、バクテリアの大きさは1〜10マイクロメータでコーヒーフィルターや燃料フィルターでは完全に濾過することはできません。また、もともとバクテリアは空中、地中、水中、氷から熱い温泉まで、ほとんどすべての環境に生息しており、ディーゼル燃料ではその燃料の使用期間中のバクテリア発生数が問題と考えました。

その時点でタンクに残っている燃料のタンクの底に近い汚れのひどい層は諦めるにしてもそのほかの8割り方は再使用したいと考えました。清掃のやり方としては、一つずつタンクの燃料を他のタンクに移しながら空にし、タンク内を清掃して終わったところで他のタンクに入れた燃料をフィルターを通して戻して満タンにするという方法でした。この方法で実施するにはタンクに残っている燃料が約580リットルで3つあるそれぞれのタンク容量がポート230リットル、センター300リットル、スターボード230リットルの計760リットルであることから一つのタンクを空にするには約50リットルの燃料があふれてしまう計算になりました。そこで、20リットル容量のポリタンク3つを周りのヨットから借りることにしました。ぽれーるの南側に停泊していたフランスのヨット「ラゴスLagos」のポールに話すと直ぐ空の3つのポリタンクを貸してくれました。後は燃料の移送とフィルタリングですが、手動ポンプではとても実用的でありません。また、コーヒーフィルターでは時間がかかり過ぎてらちがあきませんでした。

そこで、電動ポンプと燃料フィルターを結合した簡単な燃料移送装置を作ることにしました。必要な部品を購入するためヨット仲間が別のマリンショップ「オーシャン・マリン」を教えてくれていたのでパペーテ郊外にあるそのショップに行きました。店にあるパーツの価格は他店と同じぐらいでしたが中国系のオーナーと奥さんがたいへん親切な方で直ぐ私の相談にのってくれいろいろアドバイスもくれました。電動ポンプ(毎分20リットル)と透明容器に入った燃料フィルタ、ホース、クランプ、タンク洗浄剤等、また、私が捜していたエンジンやジェネレータのフィルターはすべてこのショップで購入することができました。そして、最後に合計金額の10%を割り引いてくれました。さすがに他のマリンショップのフランス人やタヒチ人のオーナーと違って華僑の人は商売がうまいなと感心しました。その後も何回かこの「オーシャン・マリン」に行きシャックルやピン等の細々としたものを購入しました。また、5軒の大きなハードウェア店でも買えなくて、取り扱っている店も分からなかったインパクト・ドライバーもこのショップのオーナーにお店を教えてもらって購入することができました。

燃料タンクの清掃は実際やってみるとたいへん苦労しました。ポートタンクの外形は上の幅約40cm、下の幅約30cm、長さ約200cm、深さ30から40cmと艇底の形に沿って変形したステンレスの細長い直方体でタンク内部は燃料の動揺を押さえる2枚の仕切り板で三等分されていました。その仕切り板の中央に直径約10cmの丸い孔と一番低くなっているコーナー隅に半径約5cmの四分の一円の切り欠けがありました。また、マンホールは孔の直径は約22cmで三等分している両端の区画の上面中央の2カ所ありました。しかし、ほぼ形状が同じスターボードタンクにはこのマンホールは後部側の区画の一カ所しかありませんでした。センタータンクは上の幅約66cm、下の幅約50cm、長さ約150cm、深さ約30から40cmでポートタンクと同じように仕切り板2枚で三等分されていました。マンホールは後部区画の上に一つだけでした。

清掃作業は一番やりやすいポートタンクから始めました。艇底から3cm当たりまでの上積みの燃料を借りてきたポリタンク3つとセンター及びスターボードタンクに移し、艇底から約2cmに堆積した土状のヘドロを残して1cmほどの上積みをコップを使って慎重に5リットルのペットボトルに移し、残った燃料と土状のヘドロの内、手の届く範囲のものをコップとヘラでバケツに移しました。後はボロ布と大量のキッチンペーパーで拭き取るしかありませんでした。ボロ布は直ぐベトベトになり5リットルのペットボトルの燃料を別のバケツに移してその中でボロ布を洗いましたが汚れがひどくて2回ほどで同じものは使えなくなりました。マンホールの孔には腕しか入れることができず、その中の仕切り板の孔は更に小さいので手を入れるのがやっとの状態でした。またそれらの孔は機械で開けられたままで孔の角がナイフのように切れ、ポートタンクを清掃しただけでも7カ所切り傷を作ってしまいました。

タンクの底や横の壁にへばりついたヘドロの汚れはヘラやタワシでこすってもなかなか落とすことができませんでした。また、タンク内には手が届かない箇所が何カ所もあり、指先で握った棒の先にキッチンペーパーを巻き付けタンク洗浄剤を付けて拭き、キッチンペーパーが汚れるたびに交換しキッチンペーパーの汚れが少なくなるまで何回もその作業を繰り返しました。床板をはがしたタンクの上に寝ころび作業していたため身体や頭に燃料が付き、キャビン内は燃料の臭いが充満して気分が何回も悪くなりました。一応、タンク内の表面の拭き清掃が終わったところでタンク内を更にタンク洗浄剤を塗布して拭き取り、次にBIOCIDEを塗布して終了しました。作業の最後に燃料で汚れきった身体を洗うため海に飛び込みましたが切り傷に海水がしみたいへん痛い思いをしました。

一番やりやすいポートタンクでも2日間かかってしまいました。次にセンタータンクの清掃を行うため中の燃料を燃料フィルターを組み込んだ燃料移送装置で清掃の終わったポートタンクに戻しました。センタータンクとスターボードタンクにはマンホールが端の区画の一カ所しかなかったため同じ作業でも更に苦労しました。すべてのタンクの清掃にはその間に休息日も入れたため10日間もかかってしまいました。そして、清掃の程度が一番いいと思われるポートタンクの燃料をセンタータンクとスターボードタンクへ再び燃料移送装置で戻して空にし、後刻、プナアウイアを出港してモーレア島に向かう前にこの空になったポートタンクにマリーナ・タイナの給油所で新しい燃料を給油しました。今後のクルーズでは燃料の管理とエンジンの使用についても適時な運用が必要だと思い知らさせました。

ぽれーるはタヒチに着いてから既に一ヶ月半を過ぎていました。当初は一週間も滞在すれば充分だと思っていましたが気が付くとこの年のクリスマスを迎えていました。その頃には既に周りのヨットとかなり親しくなっていて、金曜日や土曜日の夕方には隣のヨットの奥さんの誕生日とか出航前のお別れパーティーとかちょっとした夕方の飲み会にも付き合うようになっていました。アンカリングしているフランスのヨットはウィークデーは朝7時頃には子供を学校に送り、その親も近くのレストランとかパペーテ市内で仕事をしている人が多く、夕方5時頃に親子揃ってヨットに戻ってくるという生活をしていました。2011年の大晦日、新しい年を新しい気持ちで迎えるため、ぽれーるはプナアウイを出港しモーレア島オプノフ湾に移動しました。

ぽれーるの今後の航海計画ですが、2012年6月頃に日本に帰国する予定でタヒチの他の島、トカレフ、キリバチ、ミクロネシア、マーシャル等に向かい、小笠原か沖縄を経て東京に帰りたいと考えています。ただし、南太平洋は本格的なサイクロン・シーズンに入っているため天候の状況によっては大きくコースを変更する場合もあります。

 World Cruising Yacht "Polaire"
   ぽれーる 関