2010/03/29 モルディブ 〜 モーリシャス(まとめ)


 こんにちは、皆さん。お久しぶりです。
“ぽれーる”は現在、南アフリカのイーストロンドンに滞在しています。

 “ぽれーる”は昨年11月16日にモザンビーク海峡でストームの中、大波をくらってノックダウンしてしまい、その際、かなり船体を傷めてしまいました。 目下、修理をしながらケープタウンを目指しています。 ケープタウンで本格的な修理をする予定です。

 「ぽれーる通信」に必要な写真やデータをかなり失ってしまいました。今回は記憶をたよりにまとめてみました。 前回とダブルところもありますが、モルディブからモーリシャスの文書を送ります。
レユニオン、マダガスカルは次回とします。 写真はもう少し整理が必要なので後日送付とします。


モルディブ

 前回までの「ぽれーる通信」ではモルディブのマーレに2009年3月21日に到着し、入国審査を終了してアンカリング地を上陸や買物に便利なフルマーレに変更するところまででしたが、続きのモルディブ滞在記を報告します。

 フルマーレ(Hulhumale)島(北緯4度13分、東経73度32分)は首都のマーレ島から約5km北西にある人工の島で飛行場のあるフルレ島の北側にあたります。詳しくは分りませんでしたが2000年前後から浅瀬の埋立てが始り、マーレ島に集中する人口の過密状態を緩和するため、学校や住宅用地として開発された人工の島です。

 現在はフルレ島とフルマーレ島は埋め立ててつくられた道でつながっています。私の持っているGPSマップは2005年度版のC-Mapですがフルマーレ島の記載はありませんでした。また、フルマーレには30人程度の観光客を乗せて約一週間のアットールを巡りダイビング・ツアーを行う300トンクラスのツアー・クルーザー(モルディブでは「サファリー・クルーザー」といわれています。)の発着点にもなっています。アンカリング地はフルマーレ島の西に沿ってほぼ南北に約4km、東西幅約400m、水深8〜10mで細長くアットール内にありますが防波堤がないため西もしくは北の風が強くなると波が高くなります。

 サファリー・クルーザーはリーフ・アンカー(引っ掛けタイプの錨)を船首からチェーンではなくロープを使用して左右に出して錨泊しており、このアンカーロープが100〜150mの長さでチェーンと違ってロープは軽いため海面近くをはしっています。夜はこの海面をはしるロープが見えにくく、小型ボートやディンギーの船外機のペラをこのロープに引っ掛けることがよくありました。アンカリング地は広いようでこの海面近くをはしるロープがたくさんあるため、ジェティー(小型ボート用の桟橋)からあまり遠くないアクセス性のいいアンカリング・ポイントを決めるのに苦労しました。

 また、サファリー・クルーザーはほとんどがツーアンカーで錨泊しているので風によるふれ回りにも注意する必要がありました。ぽれーるは80ポンドのCQRと60ポンドのブルースアンカーを1本のチェーン50mに繋ぐタンデム・アンカリングを行いました。通常、サファリー・クルーザーは月曜日にお客さんを乗せて出港し、金曜日の午後にフルマーレに帰ってくるパターンで運航されているようでしたが、観光ハイ・シーズンでない3月は総数約30隻のうち半数以上のクルーザーはフルマーレに停泊したままになっていました。

 実は、ぽれーるがこのフルマーレに移動した3月22日の朝、もう少しで座礁するところだったのです。土地勘のない環礁のパスや浅瀬地帯を安全に航行するには海底の様子や海の色がよく分る太陽高度の高い正午前後が適しています。特にGPSマップも役に立たない海面ではなおさら人間の視覚による安全確認が重要です。しかし、この時は昨日の入国時にやり残しているイミグレーションの手続を早く済ませたいという気持と多くのヨットやクルーザーが停泊しているフルマーレのアンカリング地への出入りは特に問題はないという判断から早朝に移動することにしました。

 ぽれーるは約7km離れたフルマーレへゆっくりと錨泊中の大型船の間を縫うように進み、1時間ほどでアンカリング地の沖合に近づき、10隻ほどのヨットと20数隻のサファリー・クルーザーが南北に細長いアンカリング地に停泊しているのを確認できました。ぽれーるは上陸に便利なジェッティー(小型船桟橋)とフェリー桟橋の近くを目指し、朝日をほぼ正面から受けキラキラと光る海面上をゆっくりと進んでいました。水深計の指示は「50m」「45m」「50m」と安定していましたが、目標地点まで約200mとなったところで突如「30m」「3m」となり、たいへん慌てました。

 ぽれーるはその時速度を2kt程度まで落としていたのでエンジン後進によりドラフト(喫水)限界ギリギリの水深「2m」のところで停止することができましたが冷汗ものでした。そこから少し沖合に戻って停船し、他船の往来を見ていると浅瀬にある二つの小島の間を抜けてフェリーがアンカリング地へ入っていることが分りました。近づいてよく見ると2m程の棒が海面から2本出ており、そこがこのアンカリング地の入口でした。

 アンカリング作業を終えたところでマーレ島へ行くため早速ディンギーを用意して近くのジェッティーに着けました。昨日エージェントとの打ち合せで本日の午前中にイミグレーションへ入国手続に行くことになっていたのです。フェリー乗場はジェッティーのすぐ横にありマーレ島の港まで約20分、片道料金5ルフィア(約50円)でした。モルディブに着いたばかりでモルディブのお金がないためUS1ドル(約10ルフィア)で往復を窓口で頼みましたが窓口の女性は片道の切符しかくれませんでした。

 待合室は回教国らしく年配の女性はほとんど黒いチャドルを着て物静かに座っていましたが若い女性はスカーフしているか日本と変らない服装の人がほとんどで友達同士大きな声で話をしている人もいました。その中で前の長椅子に腰掛けている若い女性の後ろ姿に目が止りました。服装、持物からして観光客ではないのは分りましたが彼女の髪型、雰囲気は日本人であると思われました。

 一応失礼にあたらないように英語で話しかけましたが直ぐ日本語での会話となりました。彼女はケイコさんといい、フルマーレの自宅から毎日、サファリー・クルーザーを運航する旅行社のオフィスのあるマーレ島へ通勤しているそうです。マーレ島までの約20分間、フェリーの中でケイコさんといろいろ話し、結局、マーレ島の桟橋からタクシーでケイコさんの職場へお邪魔することになりました。

 マーレ島ではタクシー料金は距離に関係なく20ルフィアです。マーレ島はモルディブの首都で南北約1.5km、東西約2.5kmのおむすび形をした北マーレ環礁の南端にある島です。モルディブの総人口30万人の30%にあたる約10万人がこの小さな島に集中しています。歩いてこの島を一周しても2時間ともかからないにもかかわらず、島の中の道路には車があふれ、ほんとうに多くのオートバイが走り回っていました。

 ケイコさんの職場はフェリー桟橋から約1.2kmの繁華街にあり、立派なビルのオフィスでケイコさんのご主人でこの会社のオーナーであるムーサーさんにお会いすることができました。フレマーレに滞在中、何回かケイコさんのお宅にお邪魔してモルディブに関する情報や回教国の人々の習慣や生活ぶりについてお話を伺うことができました。ケイコさんは5月の連休に日本人ツアー客を勧誘するためもうすぐ日本へ行くそうでした。

 モルディブは回教国でお酒やビール等のアルコール類の飲酒は法律で禁止されています。街の中にもアルコール類を販売するところはありません。唯一、海外からの旅行者のみが空港施設かリゾートホテル内でのみ飲酒することができます。ぽれーるがモルディブ滞在中、私はアルコール類を一切口にしない生活を送りました。

 ムーサーさんとケイコさんの友人でフルマーレでホテルを営むトビィーさんとも知合い、時々、トビィーさんのホテルに伺いホテル内の無線LANインターネットを無料で使わせて貰いました。トビィーさんの奥さんは日本方で現在は石垣島で民宿をやっているそうです。やはり、5月の日本の連休には石垣島へ行って奥さんを手伝うそうです。

 私がトビィーさんにモルディブの子供達と話す機会があれば私のクルーズ経験や日本について話をしたいと言っていたところ、フルマーレにあるトルコ系のインターナショナル小学校(Lale Youth International School)を紹介してもらうことができました。翌日、早速その小学校に出向き、担当のムラト先生とお会いし、話す内容、日時等について調整をし、学校内の見学もさせていただきました。 このラル小学校はインターナショナルな人材を育てるための基礎教育を実施しておりここの生徒は少なくとも3カ国語を話すことが出来るようでした。外国語の中には日本語も含まれており、学校内で会ったほとんどの生徒達からは日本語で挨拶されました。最初、私は最大でも10人程度の生徒さん達との話と思っていたのですが結局6時間目の授業の1時間と部活の30分を使って高学年の生徒約70名に話をすることになってしまいました。

 当日は約1時間、ぽれーるのクルーズとインターネットから収集した日本の子供たち生活の様子、子供たちの将来に対する夢について話をし、あとの30分間で質問を受けました。

「日本の子供は何ヶ国語を話しますか。」
「日本の子供の一番の楽しみは何ですか。」
「日本の子供は1日に何時間ぐらい勉強しますか。」
「日本の子供は神様に何をお祈りしますか。」
「ぽれーるが今まで訪れた中で一番印象に残った国はどこですか。」
「嵐の中のクルーズは怖くありませんか。」
「一人でクルーズしていて寂しくないですか。」
「どうして家族と一緒にクルーズしないのですか。」
「鯨に会ったことがありますか。」
「クルーズ中、食事はどのように作るのですか。」
「モルディブは好きですか。」
「大洋を走っている時はどのような生活をしているのですか。」等

 ラル小学校は男女共学で授業風景も日本の学校と変わらないようで女の子も活発に質問してくれましたが、後日、ぽれーるに遊びに来てくれたのはムラト先生に引率された男子生徒だけでした。また、時々、学校の放課後に実施されるバーベキューにも招待されましたが女子生徒は一人も見かけることはありませんでした。これは回教徒としての戒律からきているのではないかと思いました。この学校の生徒は結構マーレからフェリーで通っている子供も多く、たまたまフェリー乗り場で会うと向こうから挨拶してくれました。休日には先生とその家族が料理を持ってぽれーるを訪れてくれ、ぽれーるの周りで泳いだりトルコの歌を歌ってくれたりしました。

 マーレには何回かフェリーで通い、JICA事務所にも顔を出して挨拶し、青年海外派遣隊員の方もぽれーるに2度訪れてくれ、モルディブの現状や問題点についていろいろ話を聞くことができました。残念ながら、モルディブではこの隊員さんたちが活動している住民島(ローカル島)に外国人がヨット等で立ち寄ることは禁止されていました。ヨット等で行けるのはホテルや観光施設のあるリゾートのみでした。ただし、ヨットでこれらのリゾート島に行くには1島につき5〜6万円相当の金額と政府の許可が必要です。

 モルディブは思っていたより金持ちの国です。周辺諸国のインド、バングラデッシュ、スリランカから多くの人々が出稼ぎにきていました。ケイコさんの話によればモルディブの人は周辺諸国から来ている出稼ぎ者の3倍の給与を払わなければならないそうで、また、一般に仕事熱心ではないとのことでした。マーレの街の中で学校の生徒の下校時間に遭遇するとたいへん周辺の道が混雑します。理由は多くの親が子供を車で迎えに来ていたからです。親が迎えにこない生徒は結構タクシーで家へ帰っているようでした。

 モルディブ滞在中に、JICAの方の紹介で世界を自転車で巡っている日本人のナカニシさんにお会いすることができました。ナカニシさんは既に12年間も自転車で世界を走り、120カ国以上も訪問されているということでした。時には砂漠で力尽きて倒れたり、マラリアにかかったりと大変な冒険だったようです。また、ナカニシさんはパリやワシント等で講演もされている有名人でした。

 4月9日、朝からよく晴れた日で、次に寄航を予定しているチャゴスへ行くために必要な英国政府への100ポンドの送金と署名した許可願書のFAXのために午後のフェリーでマーレに向かいました。銀行からの送金とFAXが終わり、マーレの繁華街にあるマリン・ショップで店員と話をしていて外を見ると午後2時にもかかわらず周りが真っ暗でまるで夜中のようになっていました。そのうち北よりの強い風が吹き始め雨が降り始めました。異変を感じフルマーレにアンカリングしているぽれーるに急ぎ帰ることにしました。

 タクシーでマーレのフェリーに着いたときは強風のためフェリーは欠航しており、仕方なくフェリー乗り場で待っていたとき電話が鳴り出てみると私が契約しているエージェントのボスからで「おまえのヨットが強風で流され、どこに行ってしまったかわからないので直ぐにフルマーレに帰れ」ということでした。私はその瞬間、思考回路が切断され頭の中が真っ白になりました。少しして気を取り戻し私のほうからエージェントに電話すると内容は同じでした。

 強風でアンカーがドラッグして暗礁で艇体が壊れ既にぽれーるが沈んでしまったのか・・・。そのうち自分のクルーズもここモルディブでついに終わってしまったか・・・。チャゴス入島申請など明日でも明後日でもよかったのにどうしてこの緊急時にぽれーるを残してマーレに来てしまったのか・・・。頭の中は混乱して真面な考えはまるでできない状態が続いていました。こころのかた隅でかすかに「神様、どうかお願いです。この悪夢から早く目を覚まさせてください。お願いします。・・・お願いします。・・・」

 16時になってやっと運行が再開されフルマーレから着いたばかりフェリーの船体は船首のパルピットが曲がり、ガンネルが大きくえぐられていてストームの激しさを知らされました。フルマーレに着くまでフェリーの座席に座ったままとても窓の外を見る勇気もなくただ何かに祈るような思いでした。フルマーレに着いてジェッティーに行ってみると私のディンギーはロープでつながっているものの転覆して船外機は完全に海水に浸かっていました。

 また、強風を避けてアンカリング地を出て行ってしまったのか停泊している船は5隻しかいませんでした。もちろん、そこから50m先に見えるはずのぽれーるの姿も跡形もありませんでした。ディンギーから海水をくみ出し、とにかく北からの強風だったのでぽれーるは南に流されアンカリング地の南の端の暗礁に乗り上げているか沈んでいると思い、手漕ぎのディンギーで行ってみることにしました。

 途中、自分が今から何をしようとしているのか、もし、座礁していたら自分ひとりではどうすることもできないはずなのに・・・。むしろ、そんな無残な姿のぽれーるを見たくないという思いもありました。ただ、自分の意思に反して私の腕は機械的にオールを漕いでいました。疲れも感じず、その時は西日が差していましたが暑さも感じませんでした。どのぐらい進んだか分からない時(実際には約2km進んでいました。)になってふと左を見ると「ぽれーる」が船首からロープを出して海上に浮いているではありませんか。

 ディンギーは進行方向に対し後ろ向きになってオールを漕いでいるのでそこに着くまでぽれーるを見つけることができませんでした。直ぐにぽれーるにディンギーを着け各所を点検してみると浸水はなくエンジンも起動しました。ただ、後部のレーダータワーが大きく曲がって何本かのポールアンテナが折れており、同じく後部のディンギークレーンも曲がっていました。また、船首部のパルピットも何かに押しつぶされたように下に曲がっており、アンカーチェーンも50m付近で切れてタンデム・アンカリングをしていたため、メインの80ポンドCQRと60ポンドのブルースアンカーを失っていました。ただ、見知らぬロープとたぶん先にアンカーが付いて新たにアンカリングされていることだけは分かりました。

 いろいろ考えている時、一人乗りの1隻のパワーボートがぽれーる来ました。乗っていたのはサファリー・クルーザー「バルテール(Barutheel)」にスリラン カから出稼ぎで来ているクリューのハシーブでした。彼が私のぽれーるを助けてくれた人でした。今日の強風がフルマーレを襲った時、彼はクルーザーの当直員として残っていて、ぽれーるが流されて来てバルテールに接触した時、ぽれーるが無人だったので嵐の中、仲間2人とボートを出しぽれーるに乗り移ってクルーザーから持ってきたアンカーで漂流していたぽれーるを救ってくれたそうです。それだけ聞いたところで私はハシーブの手を握り「ありがとう・・・ありがとう・・・」と日本語で言うだけが精一杯でした。

 ハシーブは特にぽれーるを助けたことを鼻にかけることもなく、お金を要求するようなことは一切ありませんでした。ただ、ぽれーるがフェリー乗り場の元の場所に移るなら手伝ってくれるということでした。ぽれーるが元のアンカリング・ポイントに戻った時には、強風を避けてアンカリング地の外に出ていたサファリー・クルーザーやヨットが戻って来ていました。ぽれーるの隣にアンカリングしていたイスラエルのヨット「ウィンドミル」のロムが来て、嵐のときの様子を教えてくれました。それによると、風上から「ブルーパール」という300トンクラスのサファリー・クルーザーが触れ回りながらドラッグ(アンカー流されて船位がずれてしまうこと。)して来たため、周りの船は危険を感じ、アンカーを上げて逃げたそうです。

 確かおまえのヨットにブルーパールが当たるところまで見たがその後どうなったか分からないということでした。また、別のサファリー・クルーザーのクリューもブルーパールがぽれーるに衝突してぽれーるのチェーンが切れ後進するような格好で流され、途中、ぽれーるはバルテールをはじめ3隻のクルーザーと接触しながら更に流されて行ったということでした。道理でぽれーるの船首のアンカー金具や艇体に見知らぬペイントが付いており、また、見知らぬ大きなフェンダーが残されているのを不思議に思っていました。

 ブルーパールは現在、アンカリング地の北の端に停泊していることもそのクリューは教えてくれました。その日は夕刻で船外機が使えないディンギーで風に向かって2km先のブルーパールまでいくのは無理なのでVHF無線機でブルーパール呼びましたがまったく応答はありませんでした。その時はぽれーるがあの嵐の中で助かってくれていたことと助けてくれた親切なハシーブに感謝する気持ちで一杯でした。とてもブルーパールまで行く気持ちはありませんでした。

 ただ、その日はなかなか寝付けなく、そうしているうちに未だに何の謝罪もしてこなければ無線の呼びかけにも応じないブルーパールに対して激しい怒りがこみ上げてきてますます眠れなくなりました。真夜中過ぎにその怒りの中で体の異変を感じるとともに、激しい腹痛が始まりました。とっさにこの痛みは持病の尿道結石によるものであることが分かりましたが、何とついていないことか明日は憎いブルーパールに乗り込み謝罪と補償をさせなければならない大事な時なのにという思い中で激痛と怒りと情けなさの三重苦で結局その日は一睡もできませんでした。

 朝方になってやっと激痛は治まりましたが食欲はなく体はくたくた精神力も判断力も底辺すれすれでした。先ず、契約しているエージェントのボスに電話して昨日の状況を話し助言を求めましたが、ボスの言うところによると訴訟となった場合は結審まで最低でも2、3年はかかり、警察による検証と最初の訴訟費用とエージェントのサポート費は別途払ってもらわなければならないということでした。結局、事を荒立てずに相手が非を認めて補償してくれるのが一番いい方法ということでした。

 その時、ぽれーるの舷側にパワーボートが来たような音がしたので外に出てみるとブルーパールのクリューが舷側に来ていました。私はてっきり謝罪に来たものと思ったのですがそうではなくぽれーるに残したままになっているフェンダーを返して欲しいということでした。これからブルーパールまで体力の消耗しきっている体でどう行ったらいいのだろうかと考えていた私には正に渡りに船でした。そのクリューに聞くとブルーパールのオーナーは現在、船内にいるということでした。また、昨日は強風の中、ドラッグしてぽれーるに当たってしまったこともあっさり認めてしまいました。

 彼らもスリランカから来ている出稼ぎクリューで結構素直な人たちでした。ブルーパールに彼らのパワーボートで着き早速オーナーと会いたい旨をクリューに伝え、オーナーを呼びに行ってもらいましたが、暫らくしてクリューが来てオーナーは不在だと言てきましたが、私が少し強く言うとそのクリューは言葉を変えてオーナーは誰にも会いたくないと言っているとあっさりとオーナーの在船を認めてしまいました。私はオーナー室に案内させそのキャビンの前まで行ったところでオーナーは少し観念したのか私の前に姿を見せました。オーナーの名前はクッリィー、最初、何の用かという態度でしたが既にこの船のクリューが昨 日の風の中で私のヨットに衝突したことを認めていることを伝えるとクッリィーはあっさりドラッグして衝突してしまったことを認めました。

 強風の中でエンジンを始動してアンカリング地を出ようとしたがなかなかエンジンが始動せず、流されてぽれーるのアンカーチェーンにスクリューが絡まり、エンジンが始動したときにぽれーるのチェーンをスクリューで切ってしまったようだともいいました。私が流されているぽれーるをなぜ助けなかったと訊くと自分の船をアンカリング地から外に出すのが精一杯だと言い訳にもならないこと言い立てていました。ただ、ぽれーるの修理については友人に造船業者がおり誠意を持って対処するという言葉だったので、その時は私にはいろいろ不満はありましたが、クッリィーの言葉を信用するしかないと判断してぽれーるに引き上げました。

 ところが、実際には何日たってもその誠意を見せることはありませんでした。ブルーパールに行っても今度は本当に不在で2度とオーナーのクッリィーに会うことはできませんでした。ぽれーるのモルディブ滞在期限が迫ってきた時に、エージェントに居場所を確認させエージェントのボスからクッリィーに直接電話で話してもらいましたが、その時は「訴えるなら訴えてみろ」というように完全に態度を翻していました。後で分かったことですが、ブルーパールはオーナーの経営がよくないのかほとんどツアー客を確保できず、満足にクリューに対しても給与が払われていないということでした。

 また、別件でも彼は訴訟を受けており、とてもぽれーるに対応する余裕も資産もなかったようです。 4月22日、全く反省と誠意のないオーナーのクルーザーに衝突されて傷ついたままのぽれーるはビザ切れとともにモルディブを後にしなければなりませんでした。モルディブでは一般の旅行者と違ってヨット等のビザ延長費はたいへん高く、ぽれーるの損害賠償で訴訟を起し結審まで相当の期間を要する間モルディブに止まることは現実的ではありませんでした。

 モルディブで出会ったケイコさんムーサーさん、トビーさん、小学校の子供達及び先生、JICAの方々、世界自転車旅行中のナカニシさんとの思い出はたいへん楽しいものでした。しかし、モルディブでのヨットの修理は長期間を要しほとんどの部品は輸入しなければなりません。また、失ったチェーンや錨を入手することもたいへん長い期間と空輸に頼るため何倍ものお金がかかります。それにも増して、何ともできない自分の不甲斐なさとやり場のないことによる精神的なダメージは相当なものでした。おまけに身体の調子も悪くなり、一時はクルーズを続けるのを断念し日本に帰ることを真剣に考えました。

  モルディブは大変きれいな海とすばらしいダイビングポイントがたくさんあります。旅行でモルディブを訪れるのは良いかも知れませんが、ヨットでの寄航はお勧めできません。

 World Cruising Yacht "Polaire"
   ぽれーる 関