d. スリランカの思い出(その4)

 ぽれーるがスリランカへ来ることになったのは、サイクロンからの避退だけではありません。南太平洋をクルージングしている時にメールをいただいていたスリランカ在留の武田さんにお会いできることが大きかったように思います。私がまだ米国西海岸クルーズしていた時、ニュース等でスリランカの反政府ゲリラの破壊活動等が報じられていました。また、日本の外務省の出す海外安全情報でもスリランカは「渡航の延期をお勧めします。」のエリア、「渡航の是非を検討して下さい。」のエリア、「十分注意して下さい。」のエリアで全国がカバーされていました。だから、もし、武田さんからのメールがなかったらぽれーるは多分スリランカへは寄港していなっかたと思います。

 ゴール港へ入国した時点では、まだ、武田さんとは連絡は取れていませんでしたが、インタネットメールが通じ、シムカードを買って携帯電話でお話が出来るようになって、やっとスリランカに来て少し安心できるようになりました。初めて訪れる国でメールだけとはいえ知っている人がいることは心強いものです。ぽれーる通信を読んでいただいている方の中には、私がいかにも旅慣れているように思われている方がおられるかも知れませんが、私はまったくそうではありません。小心な私はいつも「問題なく入国できるだろうか・・・」、「港の中のどこへ係留すればいいのだろうか・・・」「この横風の中、バウアンカーを下ろしながら一人で鞆付ができるだろうか・・・」、「どんな人との出会いがあるのだろうか・・・」と不安と期待が一杯な気持で見知らぬ港に入っています。特にスリランカでは入国時の役人のあからさまに賄賂を取るような対応がありましたので、もし、武田さんからのメールがなければスリランカに入国したとしても燃料、食料等の補給が済み次第、長居は無用として出国していたかも知れません。

 武田さんとは1月29日にコロンボでお会いすることになり、また、無理を言って知人の方の会社の寮に泊めていただくことになりました。ゴールからコロンボまでは直通のエアコン付乗合いマイクロバス(ACバスと言われています。)で向い、途中軍隊の検問所で乗客全員が降りて持物検査と身分証明が求められたりしながら約3時間でコロンボに着きました。ヒルトン・ホテルのロビーで待ち合せをして、最初のメールをいただいてから約1年半の期間を経て初めて武田さんにお会いすることができました。武田さんは世界を股にかけた建設関係の技術者で南太平洋の島々、アフリカ、そしてスリランカで活躍されており、ヨットもメルボルン−大阪外洋レースも経験しておられるベテランヨットマンです。早速、宿泊でお世話になるコロンボ市内に事務所がある建設会社のタツミさん、ヒメノさん、スギモトさんを紹介していただき、予てより武田さんにお願いしていたコロンボ市内の日本食料品店へ連れて行ってもらい、梅干、塩昆布、のりの佃煮、すし海苔、ふりかけ等を購入することが出来ました。その夜はタツミさん、スギモトさん、武田さんに中華料理店、カラオケに招待され、本当に楽しい時間を過すことが出来ました。ヒメノさんはお仕事の関係で当日はご一緒に楽しむことができませんでしたが、後日、中華料理店に招待していただきいろいろとお話を伺うことができました。

 30日にコロンボにあるJICA(日本国際協力機構Japan International Cooperation Agency)の事務所を訪ねることになりましたが、スリランカは2月4日の独立記念日に向け反政府ゲリラのテロを防ぐためコロンボ市内全体が厳戒態勢に入っていました。各所で検問と交通規制が行われ、その街中の道路をVIPや軍隊が通過する時は一般の交通と市民通行は軍隊によって止められその場で立往生の状態でした。約30から40分の間、すべての一般の人の移動が止められている中をいかにもVIPの方が乗車している高級車が軍隊と警察の車、バイクに警護されて高速で走っていきました。(写真撮影はもちろん厳禁でした。)一般のスリランカの人はこういう状態は好ましくないがテロを防ぐには仕方がないと言っていました。こういった状況ですから一般のビルに入ろうとする時にも必ず入口で持物検査があります。JICAの事務所の入っているビルを訪ねた時も荷物検査、パスポートの提示、訪問先等の確認を受け何とかJICAの方にご挨拶することができました。JICAはご存じのように開発途上国への技術協力、人材養成、無償資金協力事業等を行っており、私はその中の青年海外協力隊の方にお会いしていろいろお話を伺うとともに、可能であれば青年海外協力隊の方が活躍されている現場に赴きじゃまにならない範囲で活躍の様子を見せていただきたいと思っていました。コロンボのJICA事務所では業務上の関係もアポイントも無く飛入り状態で訪れた私に対し親切に対応していただき、後日、私からのJICAの隊員の方に対するご挨拶のメールを配信していただくことになりました。

 コロンボのJICA事務所を訪問してから暫くして、私からのJICAの方に対するメールに協力隊の方から電話、メールを頂き、ゴール港に停泊中のぽれーるまで来ていただいた方、ゴール港のゲートまで来ていただきましたが、ハーバーセキュリティーの責任者が不在のためぽれーるを案内することが出来なかった方、隊員の方の休日にお会いして話を伺った方等、多くの方からお話を伺うことが出来ました。皆さん、ほとんどの方がいろいろな問題に直面しながらもボランティア業務に頑張っておられました。

 ゴール市内からバスで約30分のところにあるクルドワッター村の学校ルフナ・ナショナル・カレッジでコンピュータ教育担当している協力隊の土屋さんには学校へ招待していただきコンピュータ学科の約25名の二十歳過ぎの学生さんに私のクルージング話を聴いてもらうことが出来ました。スリランカの人は初めて会った私のような外国人に対して「スリランカは好きですか」「スリランカをどう思いますか」とよく尋ねてきます。ほとんどの場合スリランカの人は質問した相手から「スリランカは素晴しい国」という回答を期待しています。学生さんから同様な質問を受け、「スリランカは美しい自然があり、私は将来に希望を持った多くの若い人に会うことが出来ました。また、スリランカの人は敬虔な仏教徒が多いです。しかし、中にはお金に執心しているのか海外のツーリストに対して4,5倍の料金を請求する人達もいました。」と答えたところ、最後の回答の節が多分余計なことだったのか学生さんの一人から「海外からのツーリストはリッチピープルで貧しい人に対する施しの心を持って欲しい。」と言われ、私の少し思い上がった心を諫められた思いでした。スリランカの人は歌が大好きのようで学生さん達から2曲(多分、恋人に対する思いを告げる歌?)、私から2曲石原裕次郎の「北の旅人」、坂本九の「上を向いて歩こう」を歌いお互い少し和やかになりました。

 JICAの事務所を通じたメールの中にコロンボ日本人学校の田中さんからのメールがありました。田中さんは天草ヨットクラブに外洋ヨットを係留されたまま、日本人学校の教諭としてコロンボで勤務されています。

 田中さんは、奥さん、長男で小学校2年生のユウタ君 、長女で5歳のカノンちゃんの四人家族で、コロンボ市内に住んでおられます。2月9日、スリランカのビザ延長のため訪れたコロンボで初めて田中さんにお会いし、お宅に泊めていただきいろいろとお世話になりました。2月28日には日本人学校の水泳コーチをしているマヘッシュさんのお宅に田中さんとユウタ君、友人の太田先生が訪問した時も私を誘っていただき、マヘッシュさんのお宅に泊めていただき楽しい夜を過しました。マヘッシュさんは水泳のスリランカ・ナショナル・チームのコーチとしても活躍されている方でマヘッシュさんの兄弟は皆さん水泳を得意とするご家族でした。その翌日、田中さんが会員となっておられるコロンボの郊外にあるセイロン・モーター・ヨットクラブに招待していただき、クラブ内で行われたヨットレースを観戦したりレース後のバーベキュー、クラブ員の方達とお話しすることが出来ました。セイロン・モーター・ヨットクラブはスリランカ唯一のヨットクラブで80年の歴史を持つ格調高いクラブでした。また、田中さんの計らいで3月2日にコロンボ日本人学校を訪問させていただき、校長先生をはじめ各先生方にお会いし、ぽれーるの旅について生徒さん達にお話しすることがました。後日、田中さん一家はゴールのぽれーるまで訪ねてくださいました。

 ぽれーるは約2ヶ月スリランカに滞在し、いろんな人に巡り会うことが出来ました。このスリランカの今までのぽれーる通信では紹介できなかった、日本人僧侶として活躍されている高島上人との出会い、クルドワッター村でが透き通るような笑顔で歌を歌ってくれた少女プルサーディ、ゴールの街中で知合った電気店の店主親切だったグナセケラ、ゴール郊外の散歩中に偶然であったオーストリア元陸軍少佐ハンスと愉快なオーストリアの友人達、スイス人のかわいい女性スシ、スリランカの小学校で出会った底抜けに明るい少女達、・・・

 本当に素晴しい数多くの出会いがありました。

 3月も中旬に入り、スリランカの天候も北東風から南西風のモンスーンに少しづつ変り始め、西や南に向うヨットの出港の時期が迫っています。ぽれーるは11日にゴールを出港してモルディブへ向います。

World Cruising Yacht "Polaire"
ぽれーる 関